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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

ピエトロ・ナルディーニ

2022-03-16 08:07:00 | 音楽
きのうは
T中で常連JCたちの
カウンセリングをしてきたが、
口々にロシアの戦争の不安を
訴えていた。

彼女たちにしてみれば、
辛うじて記憶にある
3.11の震度6の恐怖、
パンデミックの閉塞感・・・と、
まだ短い人生で
二度も大きな厄災に見舞われた
不運がある。

そこにきて、
マスコミから
「第三次世界大戦」やら
「核戦争」なぞという言葉を
耳にしたら、
(ウソ~!!)
(私たちの人生って何なのーッ!!)
ってなってしまうのも
無理はない。

なので、
HSC(繊細さん)でもあり、
心因性疾患を抱えているJCたちには
戦争報道を見ないように・・・と、
間接的PTSDの予防として
指示している。






そしたら、
今朝の朝刊で、
コロナ禍にあって、
昨年の女性の自殺が
二年連続増加したという。

その大きな要因として、
外出、会食、ショッピングなど、
女性の「気晴らし」に欠かせない
行動が制限され、
目に見えない同調圧力に
全国の「繊細さん」たちが
参ってしまったのかもしれない。

ここにきて、
ロシア軍とプーチンの
極悪非道ぶりと
虐げられる婦人や子どもたちの
憐れな姿を見るにつけて、
その心を痛ましむることだろう。

それと、
学校人のSCにとっては、
小中高生の473人という
自殺者の数も
由々しき問題で、
身近に希死念慮を抱いてる
中学生を抱えているだけに、
深刻にとらえている。

この時期、
希死念慮を抱く
受験生が志望高を落ちると、
SC、担任はじめ管理職も
戦々恐々としている。

当人や親のカウンセリングをし、
クリニックも紹介し、
薬物療法、心理療法、
家庭・学校の環境調整・・・と、
出来得ることは全てやっているので、
あとは当人の「生きる意志」を
信頼するよりない。

ご神前での
ご祈念でも、
ついつい力が入る。




花粉症の悪化のうえに、
年度末の疲れが出てきて
なかなか体調が上向きにならない。

重いケースもあるので
心理カウンセラーとしての
心の負荷が、ストレスとなって
それにのしかかってくる。

せめてもの気晴らしが、
ツタヤ・ブラウジングで
借りてくるコミックだったり、
CDのワゴンセールだったりする。

これまで、
CDコーナーだった処を改装して、
何を考えてか、
カードコーナーにしたので、
在庫CDが80%オフになっている。

といっても、
これまで、目ぼしいものは
年末年始の20%オフセールで
ほぼ買い尽くしたので、
「落穂ひろい」のように
買ってもいいか・・・というのを
探している。

きょうはオフ日なので、
また、ぶらりと散歩に出て、
「落穂ひろい」の続きでも
してこよっか・・・と、
思っている。

そんなんで、
18世紀イタリアの作曲家
ピエトロ・ナルディーニの
弦楽四重奏曲を205円で買ってきた。

モーツァルトの父と
友人関係にあって、
若き日のモーツァルトとも
接点があったようである。

曲想は
もはやバロック期の面影はなく、
古典派のモードに
変わりつつある
端境期の様式のようであった。





去年、
タルティーニの
ヴァイオリン・ソナタ全集を
買ったが、彼の弟子のようである。

205円の外盤CD一枚で
音楽史のパズルを埋めるような
トリビア勉強ができるのも
オモロイなぁ・・・と、
ゆんべは学びの楽しさを
味わっていた。






春雨

2022-03-15 05:43:00 | 仕事
船底を
 ガリガリかじる
  春のサメ

・・・落語の『雑俳』で、
おっちょこちょいの八つぁんが
「春雨」を「春の鮫」と
勘違いして読んだ秀句である。

他にも・・・

 クチナシや
  鼻から下は
   すぐにアゴ

・・・という傑作もある。

今朝は春雨の
屋根を打つ音で
目が覚めた。

そして、
朝まだき
街灯の照らす暗い道を
傘さしてゴミ捨てに出た。






きのうで、無事、
K中の今年度の勤務も
終了した。

校長不在だったので、
教頭先生に
「一年、無事、大過なく終えました」
と報告して
退勤した。

警察沙汰のインシデントは
あったが、それも
大過なく治まってくれた。

前年度も、
自殺未遂が未然に防げ、
これも大過なく無事だった。

時に、子どもたちの命に関る
大変な緊張を強いられるので、
そのストレスは大きく、
ケース分析や自己分析の
十分な訓練を積んでないと、
セラピスト自身がやられてしまう、
危うい仕事でもある。








公立学校勤務なので、
特定宗教の提示はできないが、
般若心経やら
地蔵菩薩像などの
「宗教性」であれば
許容範囲内だと思っている。

もっとも、
それらも半ば
自分のお守りでもあり、
半ば、子どもたちを
守護する「理法のイメージ」と
考えている。








般若心経は
一度も唱えたことはないが、
それでも、
書聖・王羲之(おうぎし)の
神域に達した筆致を
臨書して、それに宿る
「言霊」のようなものは
感じている。







『リュート・マラソン』を
やり始めてから
早ひと月ほど経つが、
これまでの50年でやってきた
ギター曲やリュート音楽は
100や200を下らないので、
気力さえ続けば、365日の
フルマラソンを完遂することも
あり得る。

でも、いちばん大事なことは、
古楽器を通して、
音楽を再発見する、
演奏の楽しみを味わう、
という事に尽きる。

ギターでは
敬遠してやらなかった曲も
ずいぶんあるが、
リュートで表現できないか、
という新たな課題と取り組みが、
手垢のついた曲や
飽き飽きした曲にも
新鮮な気持ちで
当たれているのはいい事である。

きのうも
仕事の休み時間に、
バッハのリュート用オリジナル
と言われている
『プレリュード』BWV999の
アナリーゼを初めてやった。

ギターでは
弾く気も起こらなかったが、
リュートでこそやらねば・・・
という気になって、
一つの佳曲と向かいあって
それを読み、弾き、聴き、して
その滋味なる味わいを
楽しむことが出来た。


傑作・狐狸庵もの

2022-03-14 08:23:00 | 
春先の体調不良から、
オフ日は
どうしても
伏してることが多い。

そのせいか、
背中も凝るのだろう。

かといって、
まだまだ
市中で50人もの感染者が
連日出ているのでは、
気安く本屋や古書店めぐりや
常連店へ食事に行くのも
憚られる。

第六波は
依然として
収束には至っておらず、
そこへきて、
ロシアによる戦争勃発である。

3.11では、
多くの人たちが、
津波被害を見て
間接的なPTSDになった。

津波に巻き込まれた
親友のTは、
未だにテレビを見れない
と言っていた。

ハイリー・センシティヴな
HSPでもあるので、
花粉症や長風邪で弱ってる時に、
連日、ウクライナの破壊された
街やら、泣き叫ぶ子どもやら、
病床に伏せる負傷者を見せられると
やはり間接的なPTSDになりそうで、
最近は、極力、見ないようにしている。





きのうは
狐狸庵先生の
新発見された原稿が
冊子化された
稀覯本のような一冊が届いた。

いずれの作品も
昭和30年代のもので、
一月からずっと再読してきた
当時に書かれた作品群とも
偶然の一致を見て感激した。

先生が
自らのお棺に入れてくれ、
と遺言した代表作『沈黙』の
モチーフが、当時の
カトリック系青年冊子に
連載された童話に
すでにその原点があった、
という今回の発見は
愛好家や研究家にとっては
驚くべきものだった。

それと、
今回の大収穫は、
併載された『青い城』という
1967年に、少女雑誌『りぼん』に
連載された少女小説である。

同紙は現在も発刊されているが、
当時は、マンガだけでなく、
数編の少女小説も
「第三の新人」たちにより
リレーで連載されていた。

遠藤周作はじめ、
曽野綾子、三浦朱門、
安岡章太郎、山本健吉、吉行淳之介
らが執筆したのだから、
驚きでもある。

狐狸庵シリーズのエッセイで、
「売れない頃、
少女小説を書いたりもした」
という一文を読んだ記憶があるが、
それが、この『青い城』だったのだ。

作中には、
おとうさま、おかあさま、
お星様になって・・・
などと、お目々キラキラの
少女漫画のような文体で、
大の大人が読むには
鳥肌物だが(笑)、
そこは狐狸庵先生だけあって、
平吉なる野生児のような
ヒーローキャラを登場させ
活劇風の面白さ、
お涙頂戴的な場面・・・と、
さすがの創作である。

ストーリーは
少女漫画を地でゆくような
ベタもベタ「大ベタ」だが、
王道の展開なので、
ハラハラドキドキ、
ワクワク、ウルウルの
見事な展開であった。

そして、
この平吉なるキャラは、
あの車寅次郎の幼少期ではないか、
と思わせるほどの破天荒ぶりと、
粋と鯔背さシャイネス、
そして、憂いがある。

モーツァルトにも通じる
狐狸庵先生お得意の
スカトロ・ネタも満載で
当時の少女は顔を赤らめつつ
腹を抱えて笑らい転げたことだろう。

自分も、
物語世界にひき込まれ、
大笑いしたり、ウルッとさせられ、
鉄板のスポ根物でもあり、
演歌の世界でもあり、
そして、そこに、
カトリシズムの宗教性が
底流にしっかりあるのである。

巻末の解説を見て、
この時期、先生は、
三度にわたる結核の手術で
死を覚悟していたとあり、
それは、別のエッセイや日記でも
知ってはいたが、その病床で
こんな破天荒で滑稽な
少女小説を書いて、
それ以後の「狐狸庵もの」の
嚆矢となったという
これまたエポック・メイキングな
作品であった。






本の帯に
まだ手持ちになかった
三冊が河出書房新社から
出版されていたことを知り、
さっそく日記以外のものを
アマゾンに注文した。

日記は、
初期のものはあるが、
晩年のものまで
収録されているのはないので、
値段を見たら1万4千円もするので
気安くポチるのがためらわれた。

でも、
晩年の日記は
パトグラフィー(病跡学)的興味から
是が非でも読みたいので、
来月の給料日にでも
ポチろうかと思っている。






静岡に単身在住してる
仲の良い従妹から
久しぶりにメールが来て、
東京にいる自分の家族や
フクシマの両親の
看護やら介護で
アタマがどうにかなりそーだった、
と近況を報告してくれた。

その折に
セルフ・ヒーリングとして
描いた幾枚かの絵を送ってくれたが、
なかなか、その懊悩ぶりが
よく現れた作品に仕上がっていた。

なので、
そのうちの一枚を
画像ソフトで嵌め込み合成して
額装してサインを入れてみた。

このまま画廊や
展覧会にあっても
おかしくないような
モダンアートにも見える。

ダンゴ三兄弟が
幼い頃は、
見事な作品を描いたりしたら、
トーチャン画商が
500円で「お買い上げ」して
家の中に額装して
飾ったものである。

彼らにしてみれば、
小遣い稼ぎにもなり、
作品も展示されるし、
いい事づくめだったはずである(笑)。




トリックスターの出現

2022-03-13 07:30:00 | ノンジャンル
この冬は
ひときわ寒さが厳しく、
各部屋でストーヴを
頻繁に焚いていた。

石油価格も値上がりし、
そのせいか、カミさんも
浴室のストーヴを
長らくつけたままだと、
「早く入って」
と促される。

一月は
愛孫をケガさせてしまい、
自主謹慎していたので、
書室・茶室に入ることもなく、
ストーヴを炊いての
「書初め」「初釜」も
自粛していた。

その流れで、
つい、昨日まで、
書室、茶室に足を踏み入れず、
ふた部屋とも
何処となく荒涼感が
漂っていた。





ここ数日、
日中は陽射しが温かく、
暖房要らずだったので、
久しぶりに書室で
筆を取った。

去年の暮れまでは、
けっこう、毎日、
臨書をしていたが、
二か月ものブランクがあると、
なんとはなしに運筆が
ぎこちなかった。

そして、
カラダが固まってるせいか、
風邪っけが抜けないせいか、
花粉症の悪化のせいか、
半時も書いていたら、
急に背中が痛みだして
気分がわるくなってしまった。

なので、
そこで中断して、
床に伏せった。

どうも、
春先の体調は
毎年、こんな調子なので、
つくづく、歳をとったなぁ・・・と、
嘆息するようである。







カミさんが卒業式で、
花束を二つ持って帰ったので、
玄関室礼に「花寄せ」にして、
自筆の
『花枝欲動春風寒』
を掛けた。

なんだか、
活動的に動きたいのに
カラダが効かず
もどかしい自分の気持ちをも
現わしているような気がする。








朝刊の新刊案内で
狐狸庵先生の新発見原稿が
冊子化されたのを知って、
すぐさま、Amazonをポチッた。

今日あたり、
届きそうだが、
未読の作品を読めるのを
楽しみにしている。








SC(学校カウンセラー)を
生業としているが、
専門は分析心理学なので、
現今の世界、人類の
深層心理的な布置を
読もうと日夜努めている。

YouTubeで、
久しぶりに
最新の『エハン塾』を
視聴していたら、
「意識の進化」という
キーワードから
このコロナ/ウクライナ問題を
読み解こうとしていて、
心に響くものがあった。

人類は、有史以前から、
今日に至るまで、
二度の大戦以外にも、
何百という「争い事」やら
「紛争」やらで
殺戮を行ってきたか
分からない。

言ってみれば、
人類誕生来、
「恒久平和」という状態は
一度たりとも
実現していないのである。

大戦後に創設された
「国際連盟」やら「国際連合」も
紛争を防ぐシステムには
成り得ていない。

もう、そろそろ、
いい加減に、
「人殺し」から
卒業してもいいのでは・・・と、
思わないでもない。

人間の行動パターンが
すべて投影されている
と言われるのが、
神話の類である。

意識研究家でもある
エハン氏は、
旧約聖書の
アダムとイヴの息子である
カインとアベル兄弟の間ですら、
「殺し」が起こっている事を
指摘しており、
なるほど・・・と、思った。

精神分析学では、
同胞間葛藤のことを
「カイン・コンプレックス」
と言う。

『出エジプト記』では、
「モーゼの十戒」として、
「汝、殺すことなかれ」
と神命が出てくる。

にもかかわらず、
神が創った
夫婦の息子は、
兄が弟を殺すのである。

その救いようのない人間の
処方箋として登場したのが、
新約聖書のイエスであり、
彼は、
「汝の敵をも愛せよ」
というような
途方もない「愛的行為」でのみ
人は救われるのだと説いた。

これを今のウクライナに
当てはめて、出来るかどうか、
まず無理というものだろう。

しかし、
狐狸庵先生は
『私のイエス』で、
「アウシュヴィッツのガス室で
殺された子どもたちが、
もし、あの世でヒトラーと会ったら、
彼を許すのが、愛であり、
それが宗教性であろう」
と言っている。

ロシア侵攻や3.11で
「神も仏もあるものか・・・」
と思った人々は
少なくないだろう。

自分にも、
そう思いたくなる
心境がたしかにある。

しかし、それは、
宗教性からは全く遠い考え方で、
それでも、にもかかわらず、
神や仏を考え続けてゆくことが、
宗教性なのである。

エハン氏の指摘で、
もひとつ感心した事があった。

それは、
「破壊と創造」「死と再生」を
もたらす者としての
トリックスターの存在である。

事によると、
コロナ・ウイルスと
プーチンは、
「デストロイヤー(破壊者)」
「デビリッシュ(苦しめる者)」
という面での
トリックスター的役割として
登場したのではないか・・・
というのである。

それは、なぜ?

個々人に起こる様々な
病苦や不幸事に対して
サイコ・セラピストは
それを「治し」「助かる」
という治療・救済支援の一方で、
「それは、なぜ起こったか?」
という意味を
共に考えるのである。

そして、
深層心理学とも言われる
分析心理学には
「セルフ・アレンジメント」
という用語がある。

意識の中心は
「エゴ(自我)」、
意識と無意識を合わせた
全体の中心は
「セルフ(自己)」
と言う。

その「セルフ」が
「アレンジメント」をした、
というのである。

では、何のために?

そこで、
「自己実現」または
「個性化の過程」のために・・・
となる。

ほんとうの「自分」、
仏教でいう処の
「真我」となるため、
あるいは「仏」となるため。

金光教では、
「生神になる」ため、
と言う。

ヒンドゥー教や
インド哲学的には、
「宇宙の根理」ブラフマンと
「自己の中心」アートマンが、
同一化するためである。

ユングは人類全体に
共通の無意識がある、
ということを
世界中の神話や考古学的研究、
文化人類学的研究で究明し、
それを「集合無意識」あるいは
「普遍的無意識」と名付けた。

個人の心的現実にある
「セルフ・アレンジメント」が
人類規模で起こると、
「コロナ/ロシア」のような
凶事として具現化するのである。

アメリカのトランプ現象やら、
イギリスのEU脱退やら、
格差社会の蔓延やら、
欧米の民主主義も
ガタガタになりつつあり、
AI導入による「人間フラット化」
スマホ中毒も進行しつつある。

それに加えて、
環境汚染、温暖化問題、
忘れた頃にやってくる
「地震・津波・火山・台風」
という超規模化しつつある
自然災害。

どうも・・・
どの面から見ても、
人類は存亡の危機が
「今、ここ」にある現実である。

これは、土俵際、崖っぷちまで
来たのかもしれない。

『サザエさん』のカツオや
『ドラえもん』ののび太が、
始業式直前の
夏休みの終わりになると、
「夏とも」を懸命にやるような
「終末努力」を人類に起こさせるべく、
「コレクティヴ・アンコンシャスネス・
アレンジメント」が
〈コロナ/プーチン〉という
トリックスター(破壊の使者)を遣わした
と考える事ができる。

粘菌のライフサイクルのように、
個々に活動していたアメーバが
寄り集まって一体化し
ひとつの胞子体となるように、
ホモサピエンスという種は
「今、ここで」
根本的な意識改革の進化を
自ら為し遂げて、
物質主義・経済至上原理・
AI支配などから
本気で脱却を目指さないと
もう未来はないのかもしれない。

そして、滅びた後は、
芥川の『蜘蛛の糸』の結末のように・・・

 極楽の蓮の池から
 その浅ましい様をみていたお釈迦様は
 悲しそうな顔で
 立ち去りました・・・

・・・と、なるやもしれぬ。





























3.11の卒業式

2022-03-12 07:43:00 | 大震災/コロナ禍
3.11の昨日。

2時46分には、
テレビ中継のサイレンに合わせ、
画面の中の
三陸の防潮堤に並ぶ
子どもたちと共に
黙祷を捧げた。

何を思い出す事もなかったが、
一瞬、ジワリと
涙が込み上げた。

それは、
亡くなった方々への
憐憫の情なのか、
生き残った自分たちへの
サバイバーズ・ギルトなのか・・・。

3.11、パンデミック、
ウクライナ侵攻・・・と、
世界は今も憂いに覆われている。

【それでも生きていく・・・】
という、
あの時の決意の言葉が
脳裏に浮かばない日はない。






3.11では
古楽器工房にある
何十㎏もの工具が
まるで張り子のように
ひっくり返り、
足の踏み場もなかった。

パソコンもテレビも
床に投げ出された。

ギターも粉々になった。

破壊の限りを尽くす
自然の驚異に
身震いした。

そして、
その時、同時に、
2万数千もの命も
沿岸で奪われた。

普段は穏やかな海、
癒しをくれる海、
その海が荒れ狂い
多くの人々を呑み込んだ。

かと言って・・・
東北の人々は
「海を恨む」ということは
なかったと思う。

海が悪いのではないのである。

地震も自然の営みなのである。

我われは大いなる天地の間に
住まわざるを得ない
儚い生き物なのである。








「不幸中の幸い」とも言えるのが、
あの渦中、人々は助け合い、
励まし合い、慰め合ったことだ。

自分もまた、
関西在住の
元同僚や教え子たちから
大いなる慰めや支援を受けた。

ギターの弟子でもあった
ガッちゃんのご主人は、
元自衛隊員だったという事もあり、
遠路遥々、兵庫県赤穂市から
20㎏近い支援物資を携え、
新幹線の止まった中、
バスを乗り継いで
フクシマまで来て下さった。

その恩義は一生忘れられない。

自分もまた
原発爆発と津波で
沿岸部から避難してきた人々で
溢れかえる市内の体育館や
公民館など18ケ所を
ASD(急性ストレス障害)ケアの
ヴォランティアの為に廻っていた。

なので、
その寸暇に
フクシマ駅前で
ご主人から支援物資を
手渡され、そこで、
自衛隊式「敬礼」の互礼をし
「先生は、早く、避難所に
いらして下さい」
と促され、話をする間もなかった。

上空にはヘリが飛び交い
その轟音が絶えず耳に入り、
道路は自衛隊の国防色の車両が
行き交って、まるで、
戒厳令が発令されたかのような
かつて見た事のない、
映画のシーンのようでさえあった。




そのガッちゃんからは、
爾来、毎年3.11の日には、
「こころの支援」を贈って
頂いている。

きのうも
自分が食べて美味しかったから、
と高級焼き菓子の詰め合わせが
届いた。

自分ともガッちゃんとも
仲の良かった
養護教諭のハネちゃんからも
毎年のように
桃を贈って頂いていた。

「定年までは送るからね・・・」
と、年に一度、
電話で談笑していた彼女も
この三月で定年である。

私を支援することが、
フクシマや被災者を
間接的に支援することになるから、
と言う二人の思いを受けて
『復興支援リサイタル』を
6年も続けることができた。

毎年のアンケートを見るに、
のべ1000人以上の人々の
心を癒すことができたのは、
自分を支援してくだすった方々の
おかげと感謝している。

同じく元同僚で
同じ理科のQちゃんからも
『復興支援リサイタル』には
過分なカンパをお送り頂いた。

そして、教え子で
プロ・ピアニストの
オハギとイマダケちゃんは
ドイツと京都から
ヴォランティアで
参加してくれた。



ブログを再開した
2月初めから、
動画投稿のできる
フェイスブックには
一日一曲
『リュート・マラソン』
と名打って、
拙い演奏をアップし続けている。

この出口の見えないコロナ禍は、
3.11の時の出口の見えない
放射能汚染の恐怖にも酷似しており、
あの頃は「原発うつ」と言ったが、
今は「コロナうつ」が多発して
自殺者も増えている。

そこにきて、
ロシアの戦争勃発である。

自分もたいがい
気が滅入るが、
教育臨床でも、その影響は
顕著に出ており、
不定愁訴や抑うつ感を訴える
子どもたちが漸増している。

去年の十代の自殺者が
5百数十名にもなったというのも
由々しきことである。

だからこそなのか、
『復興支援リサイタル』のような
コンサート活動ができない現在、
多くの人々がYouTube発信を
始めたように、自分もまた、
「音楽による慰め」を
自分に出来るささやかな事として、
心理臨床家/音楽家として
やらせて頂いているのかもしれない。









きのうは
原発事故の特別避難地区にある
山間部の中学校の卒業式に
参列してきた。

卒業生4名、
在校生5名の
僻地校である。

卒業生の二人は
1年生から3年間、
ひとりは2年間、
もひとりは1年間、
それぞれカウンセリングで
相対してきたので、
四人とも教え子同様に
大切な子どもたちである。

その両親や母親たちとも
カウンセリングをしてきたので、
きのうは、ほんとうに心から
「おめでとうございました。
 よかったですね」
というお祝いの言葉を
嬉しい気持ちで
保護者に申し上げることができた。













SCは
学校教育法の改正で、
「チーム学校」の一員として
明記されたので、
本来は、嘱託の会計年度職員の
身分ながら「職員」同様なのだが、
まだまだ
お客様扱いされる学校が多く、
きのうも式次第の「来賓」として
記銘されていた。

式場内は
職員、来賓、保護者とも
礼服の黒一式のなかにあって、
自分だけが、勇気が要ったが、
あえて「色物」的存在に徹し、
トリックスターとして
アズールとイエローの
「ウクライナ・コーデ」で臨んだ。

だから、そうとう、
目立っていただろう。

でも、華やいだ明るい
袴を着られる先生もおられるので、
黒一色のダークで厳粛な中に
卓上の花のごと
早春の青空と黄色い花を
ファッションで表現した。

そして、もちろん、
"華やぎ"だけではなく、
子どもたちの未来に
恒久平和があるようにという
願いと祈りをも込めたつもりである。

さすがに、
そこまでの意図を
汲み取ってくだすった方は
おられなかったようだが、
さして顰蹙を買う空気感も
感じられはしなかった。

場のなかにあって、
いちばんの年長者だからか、
普段から先生方に
指導助言をしている立場だからか、
あるいは、
(あのオッサンは変わりもんだから・・・)
と呆れられてるからか・・・(笑)。



いちばん長く
3年間カウンセリングをやった
Aちゃんに尋ねると
「顔出し、OKっすよ」
とのことだった(笑)。

彼女とは、
サマーコンサートの、
リコーダー&ギターのデュオで
『星に願いを』を
しんみりと演奏して
拍手喝采を得た。








ふだんは
一食350円の給食だが、
この晴れの日だけは、
3.542円もの
豪華な仕出し弁当だった(笑)。

卒業生、在校生を
全員、見送った後、
先生方全員が
ランチルームに集い、
式の無事成功を祝し
会食となった。