『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

清魂食?

2021-06-26 07:37:00 | 藤井 聡太
SC(スクールカウンセラー)の定年は、
75歳なので、健康でさえあれば、
そこまで勤め上げたい、
とは願っている。

平成7年に
文科省による
研究事業として開始されたが、
自分は平成8年からの
二期生組(10人)で、
一期生組(3人)を含め、
25年続けている人は
もう誰もいない。

なので、
自称「シーラカンス」であり、
「レジェンド入り」である(笑)。

なので、
県教委はもっと大切に
扱ってほしいのだが(笑)、
毎年のように担当指導主事が変わり、
カウンセリング事情には素人で、
予算配分や人事や研修にばかり
役所的目線で仕事しているので、
SCの個人的事情なぞには
配慮がない。

なので、
定年までに、
懇意の先生が配置されたら、
最後くらいは
ワガママを言って、
家の近所の学校に
転勤させてもらおう・・・
という野望を抱いている。

ちっさい野望だこと・・・(笑)。


(^▽^)> テヘヘ…♪





自由業なので、
イレギュラーなオフ日が多いが、
半隠居生活の身には、
「休日神経症」にならないように、
朝目覚めた時に、
一日のプランニングをする。

メモにあらかたの
メニューと時程を決め、
それを節目として
オンタイムとオフタイムの
メリハリをつけるように
している。

多趣味の方ではあるが、
それでも、いずれも、
覚えたての頃のような
ワクワク感は喪失しているので、
【一日一新】
という事を心掛けている。

それと、
ブリ―フセラピーにある
「初めて」「久しぶり」「珍しい」
という変化の三指標も
毎日に求めている。



朝一に目を通す
朝刊のチラシも
けっこうな情報源になる。

きのうは、
近所の『ビッグボーイ』跡に
『丸源』というラーメン店が開店する
というのを見て、散歩がてら
冷やかしてこようと
開店時に合わせて家を出た。

BPPV(良性発作性頭位性めまい症)
の予防にいい・・・という、
バランス歩きに恰好の
駐車場の縁石を
平均台に見立てて
散歩コースに採り入れている。

きのうも
ふらつきながら、
平衡感覚トレーニングしながら
ラーメン屋に向かった。

(ここは地上100mの
建築現場の足場で
命綱がないんだ)
と自己暗示をかけると、
とたんに足が強張り、
よけいによろけて
何度も落下した(笑)。

3回は転落死したなぁ・・・(笑)。

 \(>o<)/ ア~…!!









開店10分前だったが、
すでに二人が並んで座っていた。

なので、
オープン三番目となった。

待ってる間、
メニューを手わされたので、
とくと品定めをした。

そしたら、
ラーメンよりも
筆字に目が奪われ、
なんと!! 「成」の字は
今、王 羲之(おうぎし)の
『集字聖教序』で
臨書している字体と同じで
この書家もきちんと
教科書を勉強してるな、
と感心した。

「醤」の「将」も
その絶妙の「白地」の
バランスが勉強になった。

書の稽古をはじめてから、
「集字」と称して、
いい字があったら
とことん蒐集して、
それを臨書している。

それが、やがて、
自分独自の字体を創造し
完成させる下地になるのである。

現代流に言えば、
「オリジナル・フォント」作りが
究極の目的なのかもしれない。










さて、ラーメンだが・・・
「素」のものがなく、
それにあたるのが「肉そば」といい、
豚肉がこれでもかというくらい
のっかてて、やになるほどだった。

飽きたのと
カロリー気にして
半分残したくらいである。

それと、
オリジナリティを出そうとしてか、
最初っから
「柚子胡椒のもみじ卸し」なるものが
トッピングされている。

"麺喰い"として
査定してみると・・・

細直麺で、旨味はさほどなし。

スープは豚骨・鶏ガラに
鰹節やら数種の魚系節を用いており、
わるく言えば、
旨味よりも雑味が感じられ、
「美味しい」とは思われず、
レンゲで一味みて、
もうけっこう・・・だった。

最近のニューウェーブ系の
ラーメン店は、
ダブルスープだ、
トリプルスープだ、
と飽食時代の豊かな素材を
ふんだんに使って「足し算」の
味構成をコンセプトとしているが、
絵具の原理と同じように
混ぜれば混ぜるほど
ダークになり彩度が落ちるのである。

昭和のラーメンは
物資の乏しい時代の産物で、
廃棄部位の鳥ガラと
臭みを取る長ネギがせいぜいで、
それでいて滋味深い
「ソップ」(スープ)となったものである。

いわば「引き算」の味で、
シンプル&プレーンゆえ
雑味のない澄んだ味がした。

それが刷り込まれている世代には、
いまのスープは
"厚化粧した山姥"みたいだ(笑)。

(乂'ω') ダメデアリンス












ミニチャーハンと
餃子3ケで980円の
セットものだった。

熱々の鉄板に盛られた
チャーハンは
客席に運ばれてから
店員さんが生卵を
ぐるりにグルリとかけ回す
ショー的な演出をする(笑)。

「かきまぜて、
お召し上がりください」
というので、
遊び半分で
半分調理させられる(笑)。

仕掛けが大事のわりには、
ガツンとインパクトのある
味ではなかった。

こういうのを
"見掛け倒し"
と言うんだろう。

贔屓にしてた
棚倉の町中華
『一竜』の味には
及びも付かない。



餃子も
それなりで・・・
特筆すべきものではなかった。

"出来の悪い中華店"
という洒落があるが、
そのココロは
「可もなく不可もなし」
(鴨なし鱶もなし)
のことだが、
この店はそれより劣る
造語の「アリピータブル」
(リピートするに値しない)
である。






なんだか
雑味に富んだ食事をして
"たましい"が穢れた気がしたが、
帰り道、雑草を草刈りされた空地に
アスパラの赤ちゃんが
芽吹いていたので、
カワイソウだったが、
"たましい"の浄化のために
その無垢な生命力を頂いた。

その味の
なんとピュアなことよ!!

ニンゲン、
やっぱ、こーいうもんを
たべなっきゃ
ダメだよなー、
と思わされた。

イタリア産の
伝統的古酒も
胃の腑をジンワリと
清めてくれた。







散歩で寄った
ツタヤ・ブラウジングで、
愛読している『瑠璃ちゃん』の
最終巻を買ってきて、
小一時間、横んなって楽しめた。

『おせん』の作者でもある
きくち正太の食への
拘りと蘊蓄はものすごい。

ここでも、
現代のラーメン事情を
キャラクターたちの口で
ボロクソにこき下ろしていた(笑)。






日曜に
ギターレッスンに来た
弟子のハッシーが、
「玄関、草ボーボーで、たいへんでした・・・」
と言ってたので、
今日もカウンセリングのお客さんが
お二人来られるから、
きのうの夕方に
久しぶりに電動草刈機で
キレイに刈り上げた。

金属丸ノコじゃなく
ナイロン線を高速回転させるやつだが、
土や小石をはじくと危険なので
ゴーグルと靴を履くようにと
指定されているが、
横着してサンダルでやってたら、
案の定、小石が吹っ飛ばされて
足の指にヒットして血が流れた。

たった10分かそこらの作業だったが、
蒸し蒸しと暑かったので、
けっこうな汗をかいた。

すぐに入浴したが、
いつものようにヒゲ剃りをしようと
カミソリを握ったら
手が不随意運動をして
プルプル震えて危なかった(笑)。

高速振動する機械を
10分やっただけでも
カラダは影響を受けるものである。

***

きょうは、
10時からソーちゃんの
叡王戦「挑戦者決定戦」がある。

この大一番に勝てば、
タイトル挑戦者になれる。

相手は
これまで5勝2敗の
イケメン・シンタロー八段で、
すでに彼はA級入りしている
(ソータちゃんはまだB級)。

でも、来週の棋聖戦で勝てば、
先にソーちゃんが
「九段」に昇段する。






★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。

()()
(・_・)  
~ ~      

★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。



『養老大人 箴言録』より~



 人生のあらゆる行為に、回復不能な面はあるのです。
 死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられない、というだけのことです。
 ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。
 今日という日は、明日にはなくなるのですから。
 人生のあらゆる行為は、取り返しがつかない。
 その事を死くらい歴然と示しているものはないのです。



 もう回復の見込みがなく、寝たきりになっている患者が、自分の生きる意味に疑問を持った。
 その時、フランクルは、その人がそういう運命を自分で受け入れて、それに対してどういう態度をとるかということが、周囲に大きな影響を与える。
 それが意味だ、と語った。



 決まったことは仕方がない、と私はよく言います。
 それは何も、流されて生きなさい、と言っているのではなく、そのくらいの気持ちでいれば、逆に大抵のことは実はうまくいく、と思っているのです。



 周囲の死を乗り越えてきた者が生き延びる。
 それが人生ということなのだと思います。
 そして身近な死というのは忌むべきことではなく、人生の中で経験せざるを得ないことなのです。
 それがあるほうが、人間、様々なことについて、もちろん自分についての理解も深まるのです。
 だから死について考えることは大切なのです。



 どうしても、空しい、死にたい、と言われれば、もう好きにしろ、としか言いようがない。
 しかし、それが周囲にどれだけ大きな影響を与えるのか、ということについてだけは考えておいた方がよいと思うのです。



 若い人の中には、生きていて何の意味があるのか、と考えて自殺する人もいるそうです。
 そういう人には、 「ふざけんな。大した生きてもいないくせに意味なんて聞くな」と言いたくなります。



 そもそも人間、悩むのが当たり前なのです。
 悩むのも才能のうちです。
 悩めない人間だってたくさんいます。
 そういう人がバカと呼ばれるわけです。
 悩むのが当たり前だと思っていれば、少なくともそんなに辛い思いをすることはない。























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