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そもそも人間、悩むのが当たり前なのです。
悩むのも才能のうちです。
悩めない人間だってたくさんいます。
そういう人がバカと呼ばれるわけです。
養老 孟司
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それは、王位戦「七番勝負」の開催初日の出来事であった。
熱しやすく醒めやすい国民性もあり、ソータブームもカナリブームもとうに去って、平穏な棋界のムードが戻ってきた時である。
対局は、タイトル100期超えを為して棋界の記録を更新したばかりの永世八冠と、デヴュー来、絶対王者の父にタイトルを独占され続け無冠のままの挑戦者であり続けているその娘である。
食傷気味な世間では、いつもの事なので、他の娯楽に興じるのに忙しく、棋界のことなぞ歯牙にもかけていなかった。
それでも、熱烈なニッチ的ファンに支えられ、ネット中継は続いていた。
当人どうしは互いの深い研究を闘わす真剣勝負を盤上に展開していた。
その終盤間際の八十六手目であった。
奨励会員の若い記録係も対局者のカナリもアッと言って、息を呑んだ。
絶対王者がカナリの猛攻に対して「2一歩」という守備の定石である「金底の歩」を打った。
なんと、それが、反則手の「二歩」だったのである。
ネットで観戦していた数千ものファンも、あまりの驚愕に息を呑んだ。
永世八冠たる「将棋の神様」が、うっかりにせよ打つはずもない反則手を打ってしまったのだ。
大仰に言えば、世界各地でこれを目撃した将棋ファンは心臓がとまるほどの衝撃を受けた。
そして、さらなる衝撃が人々の目を釘付けにした。
王位は、両手を盤上に着くと前のめりになって身を崩した。
「お父さんッ!」
と、いちはやくカナリが立ち上がった。
救急車が呼ばれ、カナリは同乗して救急外来に搬入されるまで、ずっとその手を握りしめていた。
ソータは意識がなく、まるで眠っているかのようであった。
救急隊員はずっと酸素マスクをその口に押え続けていた。
ネット中継をつけたまま家事をしていた愛菜も、この異変に気付き、すぐさまカナリに連絡を入れて病院に直行した。
クモ膜下出血であった。
愛菜の連絡で、小学5年と3年になったサトミとリュウマは、実家の母が学校から連れてきてくださった。
家族5人にソータの母親が病室に揃った時、バイタル装置のアラーム音が鳴り響き、医師や看護師たちがわらわらと蘇生措置を懸命に施していたが、やがてオシログラフの波形がフラットになると、スタッフの処置もしずかに打ち切られた。
午後3時35分だった。
家族と母親に見守られてソータは逝った。
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