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自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい。
養老 孟司
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将棋界は、ソータ・ファンには『徳川時代』と、アンチ派には『暗黒時代』と喩えられるように「四〇〇年に一人の天才」により長期独占時代が続いていた。
もうひとつ変わらぬことは、嘘のようなハナシだが、八大タイトルのほぼすべてで、永世八冠の娘が毎回のように挑戦者となり、そのたびごとに敗れ、牙城の一角を崩すことが出来ずにいた。
これは、ある種の「停滞」でありマンネリズムであった。
そうなると、いかなる世界でも活況を失わざるを得ない宿命がある。
ファンの一部は、「どーせ、勝てないんでしょ」と「どーせ、また勝つんでしょ」という、結末の見える物語を読まされているような失望感で、離れていったのも事実である。
それは、棋界の発展を誰よりも望んでいたソータとカナリにとっても由々しき事と思われていたが、如何ともし難い状況ではあった。
相撲やプロレスのように、いっさいの八百長のない「真剣勝負」の世界だから、弱いものはどうしたって強いものには勝てない。
まして、ボードゲームのようなたぐいでは、オリンピック・ゲームのように、当日の好不調というコンディションによって勝負の行方が左右されるということは滅多にない。
タイトル戦では、高熱や急病であれば、対局が延期される。
それで、不戦敗とはならないのである。
相撲界のように、横綱が八場所連続休場というような事態も棋戦史にはない。
世間には「四〇〇年に一人の天才」が加齢による老衰現象で弱くなるまで、リアルタイムで棋界を見守っていくという酔狂さもなかった。
娯楽は他に山のようにあるのである。
ある世界に、「絶対王者」が出現するという事は、「パンタレイ(万物は流転する)」という理法に反し、「定常が続く」という事で、すなわち砕いて言えば「何も始まらない、何も終わらない」という退屈さを招来するという事にもなるのである。
それでも、V9時代の「常勝巨人軍」や大横綱の「大鵬関」には根強いファンが存在し、「巨人・大鵬・卵焼き」という俗言があったくらいである。
贔屓チームや贔屓力士が勝つのを楽しみにしている、という国民も少なくはなかった。
しかし、この世は、やはり理法どおりに・・・
諸行無常
諸法無我
・・・であった。
万物は流転する、のである。
絶対王者の永世八冠が、タイトル100期を超え、引退したレジェンドの羽生永世七冠の「99期」の記録を更新した年の夏、それは起こった。
世間は信じられない出来事にアッと言って、息を呑み、そして肝を潰した。
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