『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

譜面しごと

2019-06-20 05:15:00 | ギター
明日の3校時目に、
2回目の音楽授業を
依頼されているので、
前回の続きで、
『禁じられた遊び』の
出だしから更に
3章節ほどをタブ譜を教えて
やってみようと思う。

なので、
今日中に
譜面を仕上げて
生徒の人数分を印刷して
教材づくりをしなくてはならない。

なんだか、
教員時代に戻ったみたいで、
久しぶりの教材研究を
楽しくやれている。

学部・院ともに
音楽を副専攻にしていたので、
ギター音楽についてのレクチャーを
音楽科の学生に何度か
する機会があった。

大学時代には、
盲学校にギターの指導にも
行っていたし、
成蹊女子高のギター部でも
自作の合奏曲を指揮したことがある。

大学生の頃に、
千葉大ギター部に入った
福高の同級生アンザイ君は
夏休みの1ケ月間に
毎日、レッスンに通ってきた。

ギター部後輩のシシドも
我が家に数ヶ月間
レッスンに通ってきたことがある。

なので、
「ギター教師」としても、
弟子や教え子がけっこう
沢山いることになる。

今、教えている
中学生もそのうちに
入るのだろう。







昨日の地震が凄かったという、
山形の高畠から
レッスンに来られているKさんが、
セヴィジャーナスの
リサイタルでのライヴ版をやりたい、
と仰るので、自分の即興的な演奏を
耳コピして採譜した。

フラメンコは、
コンパスというリズムと
尺(長さ)が決まっており、
その中でギタリストの裁量で
アドリヴでラスゲアードやセコと言った
掻き鳴らしで即興的に演奏する。

なので、
レッスンでは基本コンパスを
譜面に現して練習するが、
実際のライヴ本番ともなると
楽譜から離れて
センティミエント(感情)やアイレ(空気)
といったものを重視し、
「人生そのものを表現」すべく
ホンド(魂からの深い)な
生きた音楽が立ち上がらねばならない。

ライヴの音楽の迸流をつかまえて、
それを楽譜に固定するというのは、
本来は邪道なのかもしれないが、
ジャズマンたちも時折、
セッションで偶然に生じた
“生きた音楽”を耳コピして
再演するということもあるという。

その死後に、
「フラメンコ・ギターの神様」と
神格化されでいる
パコ・デ・ルシアも、
簡素なラジカセを前に
即興で弾いてみて、
その中から使えるファルセータ(フレーズ)を
自作曲に採り入れていたのを
記録映像で見たことがある。

そんなことを
言い訳がましく考えながら、
(なんだかなぁ・・・)
という思いと共に、
生徒さんの為に、
自分のライヴ演奏を採譜していた。






40代の一時期、
スペイン特有の古楽器
ビウエラに何年かハマッていた。

寝ても醒めても
ビウエラのことばっかり考えて、
CDを聴き、楽譜を検討し、
歴史研究と演奏の研鑽をしていた。

自作でも数本製作し、
発表会では妖しいコスチュームで
その典型的な代表曲
ナルバエス『<牛を見張れ>のディフェランシアス』
ムダーラ『ルドビーコのファンタジア』
を演奏した。

ビウエラは
15世紀に登場した
ギターよりもクビレがなだらかな
6コースで複弦の楽器である。

スペイン語の「ビウエラ/vihuela」は、
イタリア語・ポルトガル語では
「ヴィオラ/viola」となるので、
手で弾く撥弦楽器と
弓で弾く擦弦楽器の両方がある。

古楽器としてのビウエラは、
正式には
「ビウエラ・デ・マーノ」
と言い、
「Mano」は「手/指頭」のことである。

それに対し、
「ビウエラ・デ・アルコ」は、
Arco(弓)を用いる。

これは、
ヴィオラ・ダ・ガンバ(伊語/足のヴィオラ)の
祖先でもあり、スペイン発祥の
ビウエラ族はヴィオール族と
同族と看做されている。

ビウエラやヴィオラは、
さらに遡れば、13世紀頃の
中世のフィドル(fiddle)や
ビエール(Vielle)が
ご先祖様のようである。

16世紀(1536年)の
ミランの『エル・マエストロ』というのが
曲集の嚆矢であるが、
『5つのパヴァーヌ』なぞは
セゴビアがレパートリーに取り上げて来、
ギタリストにも馴染みの曲となっている。

中世ヨーロッパでは
リュートが全盛の頃だったが、
ビウエラは調弦が同じながら
スペインでは全く広まらなかった。

それは、
長らくスペインが
モーロ人(イスラム教徒)に支配され、
キリスト教徒が中東の楽器である
「ウード」を起源とするリュートを
異教徒の邪悪な楽器と
看做していたことに拠るという。

ウードは、
英語の「ウッド(木)」であり、
それに定冠詞の「ラ」が付いて、
「ラ・ウード」(ザ・ウッド)が
変じて「リュート」になった。

17世紀になって
スペインの覇権の衰えと共に
ビウエラは衰退して
歴史から姿を消した。

現存するオリジナルの物は、
世界にわずか3本のみである。

当時、
ルネッサンス・ギターは4コース複弦、
バロック・ギターは5コース複弦だったので、
ビウエラの6コース複弦という形式と
構造などが融合して、
現代の6コース単弦のギターへと
進化したのではないか、
と独断で考えている。

ビウエラの作品を残した作曲家は
わずかに7人ほどだが、
今日、ギターで弾かれるのは、
ミラン、ナルバエス、ムダーラだけで、
それ以外の
バルデラバーノ、ピサドール、
フエンリャーナ、ダサなどは
ギターでは全く弾かれない。



毎日、工房で
ビウエラを製作していた頃は、
末っ子のナッちゃんが
保育園児だったので、
オトーサンが作ったり弾いたりしてる
不思議な楽器を広告チラシの
裏面に描いていた。

ビウエラは
いかにも古楽器らしい
表面板に施す
細かいモザイク(寄木細工)が特徴だが、
その模様までしっかり模写していたのは
感心したので、額装して
今も工房の作業台の壁面に飾ってある。






少年時代に衝撃を受けた
『奴隷市場』の画家
ジェロームの他の作品をも
俯瞰していたら、
彫刻家が彫像に接吻する場面を描いた
『ピグマリオンとガラテア』
(1890/メトロポリタン美術館)
という作品にも度肝を抜かれた。

これには、
背面像と正面像の
二つがあって、
いずれも、圧倒的な画力と
その寓意性に息を呑むようだった。

彫像が生身の女性に変身するというのは、
ギリシャ神話の古代キプロス王の
ピグマリオン(Pygmalion)の寓話が
モチーフである。

王は後宮の女性たちに飽き足らず、
理想の女性像を作るうちに、
次第にその彫像に恋をしてしまい、
それにガラテアと名づける。

落語にもなりそうな噺だが、
かなわぬ恋患いで衰弱した王を哀れんで、
女神アフロディーテはガラテアを
人間にしてやると、
二人はめでたく結ばれたという
ハッピーエンドのおはなし。

ジェロームの絵に
「愛の弓矢を持つキューピット」が
描かれていてる。

キューピー・マヨネーズで
お馴染みのキューピーちゃんは、
元はローマ神話のクピド(Cupido)が
語源であり、ギリシア神話では
エロース(Erōs)という。

ジェロームの描くガラテアは、
まだ下半身が石膏か大理石のようで、
それがグラデーションで生身の上半身に
なっているのが、なんとも艶冶である。

求愛に応えるかのように
カラダを折る動きが
固定された足元との対比効果で
プシケー(魂/生気)が感じられる。

自ら彫刻も手がけたという
ジェロームならではの
質感の表現の確かさがあり、
幻想的絵画でありながら、
スーパー・リアリズムでもある。

ジェロームは
印象派が嫌いだったらしく、
さもありなんと思った。

アカデミック美術の重鎮として
サロンの審査員の頃(1869)、
モネやセザンヌ、ルノワールなどの
今日、名画といわれるものを
ことごとく落選にしたというから、
大人げない(笑)。

彼によれば
「印象派はフランスの恥だ!」
そうだ・・・(笑)。

「日本人の印象派好き」は
つとに有名だが、
『奴隷市場』のような
衝撃作・問題作を世間にぶつけた
ジェロームのような頑固ジジイも
オモロイ存在である。

まるで、
落語界にありながら、
協会に属さず
一匹狼を終生貫いた
最高のテクニシャン「金馬」を
彷彿させられた。





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