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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

料理三昧

2021-09-25 08:39:00 | 食物・飲物
きのうも
秋晴れのいい陽気に誘われて
散歩に出かけた。

ついでに、
長居しないように
気を付けながら
ツタヤ・ブラウジングと
ブックオフ・ブラウジングを
してきた。




生い茂った雑草共々
刈り取られたアスパラ跡に
ポツリポツリと
また若芽が出だしているから
その生命力は凄いものである。

その"いのち"を
頂くべく小さいものまで
摘んで帰った。






ダイソーで買った
月面をプリントした皿に
アスパラと掻き卵を
ドレッセしてみた。

ソバージュ(野生)のものは
力があって味が濃いので
塩茹でだけで
十分に味わえる。







ついでに、
ワンプレート・ランチをも
こしらえた。

段ボールで頂いたジャガイモが
まだ何個かあったので、
レンチンして
メルティ・チーズをのせて
やってみた。

オフ日だったので、
昼間っから
パンプルムゥス
(グレープフルーツ)の
カクテルを合わせてみた。







オランダ王室御用達の
『ベームスター』という
26ケ月熟成したチーズを
セルフィーユに合わせてみた。

熟成チーズを食べすぎると
その成分のチラミンで
閃輝性暗点が視野内に生ずるので、
ほんの一かけにした。








カミさんが
テニス教室の晩だったので、
"ぼっちディナー"は
オードヴルとして
『烏賊のサラダ』に
創ったばかりの
ユイル・ピスターシュ
(ピスタチオ油)をかけてみた。

なかなか風雅な香りが佳く、
安上がりに自家製で出来て
満足のゆくものだった。






メインは
スキレットにパイ生地を敷いて
タルトにした。

『ハインツ』のホワイトソースは
けっこういい値段がするが、
小分けにして冷凍しておき、
パナード(牛乳+バター+小麦粉)の
代わりに用いると便利で、
玉子と合わせるだけで
簡単にフィリングが出来る。

出来立てをオーヴンから出すと、
熱々のカリカリのフワフワで、
いい御馳走になってくれた。

甘口の『セレッレ 2009』を
合わせてみたが、
あんがいよかった。




タルト生地の余りで、
小倉餡を巻いて
デセールにした。

パイ生地鯛焼きみたいな
パリバリ、トロトロの食感で
これも佳かった。



何もすることがなかった
一日だったが、
昼・夜と存分に料理ができ、
楽しく創れて
美味しく食べれたので
満足の一日でもあった。




ちょいと外出を

2021-09-06 07:16:00 | 食物・飲物
20℃を下回る
寒い朝だ。

ブログを書くのに
書斎のストーヴを点けた。

一年を通じて
23℃くらいが
いちばん快適な
自分の適温のようである。





もう30年来履いている
夏用のパジャマ短パンが
ベッドから立った瞬間に
プツンという音がして
ゴムが切れ、
マンガみたいに
その場でズルリと
足首まで落ちてしまった。

アラーッ!!

(´δ`;) ハリャ・・・

・・・だったが、
これまで、何度も
ゴム通してしているので、
また用具を持って来て
切れたゴムを引っ張り出して
通し直したはいいものの、
もうオシリの辺りは
向こうが透けて見えるくらいの
スケスケになっていて、
もう寿命をとっくに越してるなぁ…
と思わないでもなかった。

落語に出てくる
貧乏長屋の住人たちの
セリフじゃないが
「着てりゃ着物だが、
脱ぎゃあ襤褸(ボロ)だ」(笑)。

ほんでも、
丁寧に繕って
また来年履こうと
クローゼットに仕舞った。

我が家の家訓

【物を大切にすると
 物から大切にされる】

【人を大切にすると
 人から大切にされる】







オフ日の(金)(土)と
家籠りしていたので、
さすがに外出したくなり、
買い物に出かけてきた。

スーパーでは
高級果物となった
イチジクを4ケ買ってきた。

イチジクに偏愛があるので、
庭の木が枯れてから
自家栽培を諦めて
市販のものを味わっている。

好物は「合い薬」といって
カラダにもココロにも
いいのである。

***

「やまや」で
今年三本目の
『ヴィンサント 2008』を
買ってきた。

ついでに、
同じく葡萄を陰干しして
濃縮した甘味を醸造した
シェリーの『ペドロヒメネス』も
買ってきた。

どちらも、
夕食後の夜のPC仕事時の
いいデザート・ワインに
なってくれている。





買い物で
久しぶりに鶏胸肉を
110円で買ってきて、
冷凍庫に残っていた
パイ生地で包んで焼いてみた。

出かける前の
カミさんにも
ランチとして振る舞ったら、
喜んでいた。

安価な材料でも
手間をかければ
立派な「おごっつぉぅ」に
なるもんである。

肉には、
胡椒・ナツメグ・
クローブ・ジンジャーの
4つのスパイス
(Quatre epices/キャトルエピス)
で風味を付けて、
仕上げにセルフィーユで
さらに風味を足すと
立派なフレンチになる。






冷凍庫に
残り物ソースを
様々ストックしてあるが、
「ソースショロン」を選んで
合わせてみたが、なかなかの
ヴィアン・マリアージュだった。




*********



『魂理学試論』7


「無から有へ」

 *
 

 インド哲学の泰斗・中村 元先生の『仏教学』のご生前の講義をこの一夏毎日テープで拝聴していた。
 
 古代インドには不思議な説もずいぶんあり、興味深かった。

 その中に、我々は粒子で出来ているので、仮に刀で頭蓋骨を切断されて死すとも、刀は粒子の隙間を通過しただけなのだから、それは殺人とはならない、という奇妙な考え方があった。

 現代の法廷感覚では、論点をすり替えた屁理屈に過ぎないが、社会的な善悪の判断を置いておけば、物理的には正しいことである。

 光や電子の二重スリット実験では、どちらも粒子の性質と波の性質の両方を持つということが証明された。
 しかも、それは、観察者がいるかいないかで、振る舞い方が変わるという、奇妙な結果も得られた。

 量子力学では、観察された時にのみ世界は現象化し、それまでは素粒子は確率的に存在しているだけであるという。

 極端な話、目をつぶると視覚的情報は遮断されるが、実は、そればかりではなく、今目の前にあった物は素粒子に戻り、目を開いた瞬間に収斂して物質化するという。

 にわかには信じがたい説だが、最先端の量子力学が導き出した世界観である。

 *

 そもそも、我々の知覚自体が、すべて脳内の電気的現象であるという事は、脳波の存在やその停止が死を意味する、ということでも日常的に理解されよう。

 世界を見ているのは、目ではなく、実は脳という細胞の集合体である。
 夜見る夢は、瞑目していても、鮮明に光景をカラーで見ている。
 夢の登場人物たちと会話もしているということは、聴覚も「耳」が主体ではなく脳内現象であることが解かる。
 
 同様に、すべての感覚は、臭いも味も皮膚感覚もすべて「感覚器」というセンサーを通して脳が感知・認知しているのである。

 ペンフィールドという高名な脳科学者は、てんかん患者の脳に直接、電極で電気的刺激をして、既知の旋律が流れたことや幽体離脱感があったということを報告している。
 
 脳科学者にとっての最大の謎は、何故にこの水と脂肪の塊が、映像・音・臭い・味・触覚のようなものを創り出すのか…という事だそうだ。

 最先端の科学でも、その根源的な事が解かっていない。

 *

 進化学的には、最初に誕生したのは、植物が先か動物が先か…は、「独立栄養」(光合成)と「従属栄養」(捕食」の違いから、植物が先という事は明らかになっている。
  
 そして、葉っぱの中にあって、太陽光を捕まえる光感部の「葉緑素」(クロロフィル)の遺伝子は、ウイルスを媒介として、動物細胞に水平移動したと言われている。

 ミドリムシなどの単細胞では、光に寄っていくという正(+)の「走光性」という性質に留まっているが、それが、動物細胞という生命体どうしの遺伝子の垂直移動で光受容体すなわち「目」の構造となったのである。

 余談だが、哺乳類の胎盤形成や、胎児期に指の間にあった水掻きが「細胞死(アポトーシス)」によって消えてゆくという遺伝子の働きにもレトロ・ウイルスが関与しているのである。

 *

 生物学と量子力学がぶつかる点がここにあって、観察された時に世界は現象化するという説明に対し、生物は観察すべき光・音・臭い(化学物質)・触覚(圧点・痛点・温点・冷点)が先にあるから感覚器(受容体)が作られたと説明する。
 これまた、ニワトリが先かタマゴが先か…の問題である(笑)。

 哲学の一派にも、対象があるから感覚・知覚・認知が起こる、という学派もある。
 
 *

 ここで、今一度、根源に戻ると、この宇宙は138億年という有限の昔に、1ケ所の特異点から、1ケの素粒子から誕生したのである。
 その時は、物質もなく生命もなかった。
 当然、ビッグバンが発生するまで、何の現象も起こっていない「特異点」=「時間0」が在った。

 ホーキング博士の言葉を借りれば、「神が宇宙を創る時間はなかった」のである。

 そこから時空と物質とエネルギーが宇宙に創生された。

 じゃ、その時の個々の「たましい」は、どうしてたの? となる(笑)。
 
 オールマイティ理論を持ち出せば、宇宙という有限空間の「存在」とは別次元の無限空間の「原存在」に在ったというよりない。

 そして、それは、時空と物質とエネルギーが出来、生命が誕生すると、「原存在」から「観察者」=「意識」=「自分という主体」を創出したのであろう。

 そこには、量子の基本的振る舞いである「対生成」や「量子もつれ」のような次元を超越した相関的な現象が起こったのかもしれない。



 現在の宇宙の加速膨張には、ダークエネルギーという正体不明のものが関わっていて、それは膨張するほどに増えるという、物理学者の村山博士をして「究極のタダ飯」と言わしめるほどの大盤振る舞いが起こっているという(笑)。

フレンチ勉強

2021-09-04 07:22:00 | 食物・飲物
閉門蟄居(ステイホーム)
つづきで、
仕事以外は外出を
控えている。

最近の
YouTubekのハマりもんは
『ポールボキューズ』シェフによる
料理教室である。

レストランの本格フレンチを
解かり易く
親切丁寧にやってくれるので
料理用語の勉強にもなっている。





フレンチの巨匠
ポールボキューズ氏の
レシピを忠実に再現したものは
古典的フレンチで
80年代の懐かしい感じがする。







こういう斬新なドレッセは
現代調だが、
なかなかこんな風には
シロートには表現できない。









パイ包み焼きは
ちょくちょく創ってるので、
こんなシンプルなドレッセが
参考になる。









こんなソーモン料理も
家庭でできそうな
素材である。

コロナ禍のホームステイのせいで、
以前よりもフレンチを創る機会が
ずいぶんと増えた気がする。




*********



『魂理学試論』5



「原存在と分化」

 


「スーフィズム」(イスラム神秘主義)には、万物は見かけ上は全く違うように見えるが、実は全て唯一の『存在』の一形態に過ぎず、本質的には同一次元のものである、という『存在一性論』がある。

 魂理学の中心命題も、この考えに拠っている。
 東洋的表現では「一にして全 全にして一」と同義である。

 この宇宙にある全ての実在的な「存在」に対して、それを生み出した大元のものをここでは「原存在」と便宜上呼ぶことにする。

 受精卵から個体が出来るという過程を扱った発生学において、「分化」という概念は「ディフェランシエーション(Differentiation)」と言う。
 これは中学英語で習う「違い」という意味である。
 漢字を訓読みにすれば「分かれて、化ける」ということである。

 じゃ、何が?

発生学では受精卵という1ケの単細胞が、分裂を繰り返して60兆もの多細胞に増える過程で、それぞれ、目や耳や鼻に「分かれて化け」、「違ったもの」になることを意味している。

 当たり前と思われるが、個体になったヒトと丸い受精卵とでは、見るからに違うもので、見事に「化けた」と言えるだろう。

 さて、この受精卵を「原存在」とすると、分化したものが、この宇宙すなわち現象界にある様々な「存在」という事である。



 自分には、長らく疑問として抱いていた事がある。
 それは自分の「個性」というのは、「たましいは生き通し」というのであれば、保存されるのか否か、という事である。

 昨今、前世の記憶を有する子どもの話が、書籍やらテレビ番組で紹介されることがある。
 彼/彼女たちの証言が、現実の事と相当な確率で一致するというので、「輪廻転生」の証拠である、と即断するスピリチュアリストやブッディストもいる。
 その信憑性は、さておき、取り合えずそのような事実があるという事も、未知の「たましい」の世界を推測するのには、パズルの1ピースとして持っておいても有用かもしれない。

 これとは反するが、スーフィズムでは、「たましいの個性性」は、「原存在」に近づくほどに失われていく、と説明されている。

 また発生学と対比してみても、「原存在」は受精卵と同じく、未だ何ものにも分化していない「未分化」な状態といえる。

 ヒトであれば、十月十日を経て新生児として誕生した時には、組織・器官に「分化」した状態になり、その後、両親由来の遺伝的な形質と環境との相互作用で獲得した形質などが合わさって、いわゆる「個性」が出来上がっていくのである。

 この考えによれば、前世の記憶を有したり、輪廻転生が有る、という事は、安直には認めがたいが、そこには、合理的思考を超越した「仕掛け」が無いとも断言できないので、取りあえずは「棚上げ」である。

 スーフィズムについて、もう少し詳述してみると、意識が表層から深層に下るにつれて、経験世界の言語的な分節の枠組みが取り除かれてくる。

 つまり我々は、考える時、自ずと「言葉」によって対象を「分けて」いるが、その考え方がなくなってくる、という事である。

 個々の存在者の独自性(= 自我同一性/アイデンティティ/自分であるという感覚)が喪失していくにつれ、存在者相互の区別もつかなくなる。

 存在者 A は《A》でありながら、もはや《A》とは言われなくなる。
 存在者 B も《B》でありながら、《B》ではなくなる。

 存在者 A、B は、もはや名前を付けて呼ぶことはできず(主語性を失う)、《これ》とか《あれ》といった指示代名詞で呼ぶこともできなくなる。

「自我の消滅」に達すると「絶対の無」=「原存在」=「究極的一者」となるのである。

 我われは、《何か》を見て、《何か》を知るのだが、その《何か》がなくなると、見るものも、知るものも、なくなる。

 認識主体が、もはやここでは存在していない。
 
 これを「意識のゼロ・ポイント」と呼び、それは、すなわち「実在のゼロ・ポイント」でもある。

 この意識の最深層では、世界はまったくの「無分別」の《絶対無》となり、「原存在」そのものとなる。

 ただし、この《絶対無》は、「絶対的に無分節なるもの」であって、「何も存在しない」という意味ではないので、仏教の「空」と同じと見ていい。

 般若心経の「空即是色」は、「空」なるものは「色」(分節化の現象)と同じものである、という意味である。

 今、便宜上、「原存在」という言葉を当てて、そこから生み出された現象界の「存在」と分別しているが、本来は、言語を超えており、命名することはできないのである。
 その事を道教では、「言語道断」という。
 この四文字熟語の本来の意味は、言葉は物事を分節・分別するので、道(タオ/究極の本質)を断ってしまう、ということなのである。

 魂理学的には、「原存在」は、「真の神」あるいは「根源的存在」と同じものと見做してもいいように思っている。

鮎のクネル失敗…

2021-09-02 06:30:00 | 食物・飲物
オホーツク高気圧の
張り出しのせいで、
冷気が入り込んで
急に気温が低下した。

朝方は20℃を下回り、
半袖短パンでは肌寒く、
長袖ズボンに着替えた。

いよいよ
秋へと季節は
移り変わるようだ。





庭の一角が茶色くなって
異変に気付いたが、
実のついた柿の葉が
上から枯れてきた。

根本近くは
斑入りになっていて、
なんかの病変のようである。

となりにあった
イチジクも大木に生長し、
味良い実が採れるようになったら
カミキリの虫害にあって
枯れてしまった。

今度は、柿木まで
ダメになりそうで、
ガッカリである。

なんだか、
曽呂利新左エ門の
道化噺を思い出した。

秀吉が愛でていた
庭の松が枯れて、
それに怒って御庭番を
打ち首にしようとした時に
それを諫めた歌を詠んだ。

 太閤の秘蔵の松が
  枯れにけり
   千代の齢を
    君に譲りて

それに気を良くした
秀吉が打ち首を
取り下げたという。





買い物帰りに、
ツタヤ・ブラウジングをしたら
初めて見る騎士物のコミックが
面白そうだったので
2冊借りてきた。

これも
最近はやりの
「異界物」のジャンルにあった。






どういうわけか、
西洋のお城の内部や
当時の城内での生活が
描かれているのを見ると、
なんだか懐かしいような気分になり
魅かれるのである。

もしかしたら、
はるか中世の頃、
城暮らしをしていたのかもしれない(笑)。

あるいは、
西洋古楽器が似つかわしい
雰囲気があるからなのだろうか。

作中でも
シターンという
古楽器が登場した。






スーパーに
珍しく養殖アユがあり、
一尾180円という廉価だったので
クネルにしようと買ってきた。

いちどグリルで
カリカリの焼き魚にして、
それからフードプロセッサーで
玉子・バター・生クリーム・
ハーブ類と撹拌して
ラップで成型する。

オーヴンを70℃に設定し、
土鍋で30分ほど
ゆっくり火入れした。








ピラフの上に
ソーセージ状のものが
乗っかるはずだったが、
ラップを切ってみたら
ドロリと流れて…

ϵ( ̄△ ̄)϶ アラー

・・・であった。

失敗の原因を考えたら、
小麦粉を入れるのを忘れて
それで固まらなかったようだった。

それでも、
ユルユルの鮎風味の
茶碗蒸しみたいだった(笑)。

【失敗は成功の母】
なので、
次回に再チャレンジである。



*********


『魂理学試論』3

「制限/縛り/ルール」


「なぜ寿命があるのか…」
 というシンプルな命題に、簡単に答えると、その方がオモシロイからである。

 それは、心理学の達成動機ということで説明できる。
 アトキンソンという学者が「輪投げ」でそれを証明した。
 それは、子どもたちを相手に、100%入る距離と100%入らない距離では、「やる気」が起こらないという至極当たり前の実験である。
 子どもに限らず、人は50%の確率の時に、もっとも「やる気」が起こる。
 すなわち、そのゲームをオモシロイと感じるのである。

 これは、テニスというゲームで、ネットがあるのも、枠があるのも、同じことで、あえてそこに制限をもうけてルール化し、面白みを持たせているのである。

 広いグランドで、ふたりで何の障害もなく球を打ちあったって、たいして面白くもない(笑)。

 ゴルフも同様で、360度どこに打ってもよくって、ホールが100ケもあったらツマラナイに違いない。
 OBやバンカーという枠や障害物があるからゲームが成立するのである。

 それらの「制限/縛り/ルール」は、ゲームを面白くさせる条件なのである。

 それゆえに、寿命や病や災害や老化…といった有難くないものでも、それが人生というゲームの「制限/縛り/ルール」と解釈すれば、オモシロクするための設定なのである。

 じゃ、誰が設定したのか…。
 神様か、魂か、全てを存在せしめた「空」か、いずれかわからない。

 ひょっとしたら、「生」と「死」という2つの現象に「たましい」が在る確率は50%ずつという設定なのかもしれない。
 寿命がなく「不老不死」だったら、無期徒刑囚の方が死刑囚よりも無気力になるというようになるのだろう。
 あるいは、肉体的障害や病苦から免れることができないとしたら、まさしく「生き地獄」化する。
 人間、勝手なもので「生き続けていたら、きっと死にたくなるのだろう」そして、逆も真なりで、あの世で無苦痛状態でいたら、生身のカラダを得て苦労してもいいから「生きてみたい」と思うのかもれない(笑)。




 中国の古代皇帝のように、人は「不老不死」を夢見てきた。
 
 釈尊は人間の「四苦」として「生病老死」を説いた。

 最終的には、死んでしまうのに、どうして生まれる必要があるのか…という、子どもじみた疑問がある。
 しかも、その途中で、病にかかり、老いてゆく。

 もっとも、楽しみや喜びも人生にはあるので、それのみだったらどんなにいいか…と、誰しも思う。

 しかし、どうやら「苦楽」や「悲喜」は「明暗」同様にセットになっているようなのである。

 これらの無い状態は「無」の状態である。
 宇宙の存在以前の「絶対無」ともなると、文字通り「時間」も「空間」も「すべての存在」が無いと想像してみるといい。
 
 ところが、その「絶対無」から宇宙が誕生したのだから、「無」とすると矛盾があるので、これを仏教では「空」とした。

 物理学が説明する処は、「時間」「空間」「物質」はないが「真空のエネルギー」は有るとする。

 エネルギーは物質との可逆性があるのは、アインシュタインの「E=mc²」という式に示されている。

 とすると、「時間」「空間」「物質」はこの「真空のエネルギー」が姿を変えて(相転移)、生じてきたということである。

 さて、いったん「時間」「空間」「物質」が誕生すると、そこには自ずから「制限」や「法則性」が発生する。

 これは、「閉じた系」の性質と言ってもいいだろう。

 宇宙創造から人間創造が38億年の時間を経て為された。

 この宇宙も10の33乗年後に崩壊すると計算されているので、そこにいる人間にも寿命があって然るべきである。



「何も始まらない/何も終わらない」という「無変化」な状態を想像すると、それは何かを生み出す「空」でさえなく、まさしく「無」と言っていいだろう。

「変化」が起こるのには、舞台(空間)と動き(時間)と主人公(物質)が必要とされる。

 そして、それを観察するものが意識なのだろう。
 
【この世は神の見ている夢である】
 という箴言があるが、あるいは、「たましい」が見ているのかもしれない。

 量子力学では、観察者が存在しないと、確率的に存在している量子が収束して現象は起こらないという。









百合のような君なりき

2021-08-28 08:22:00 | 食物・飲物
きのうは
夏休み明け初めての
山間部のY中へ
出勤した。

標高560mの高地だが
それでも、
日中は30℃を越す
真夏日で暑かった。




1ケ月ぶりの
給食だったが、
袋麺だったので
例によって給湯室で
スープ共々レンチンして
熱々で食した。

やはり、
薄味が過ぎて
持ち込みの「麺ツユ」を
適宜投入して
やっといい塩梅になった。

トマトスープだったが、
カップヌードルの方が
美味いなぁ…
という味だった。






給食後に
20分の休憩後に
昼休みのカウンセリングがあるので、
毎度、大急ぎで体育館ピアノで
ギリギリまで音出しをしているが、
きのうはさすがに館内が
29.7℃もあり、
10分弾いただけでも
瀧のような汗が噴き出した。

考えてみたら、
給食の麺を
熱々にして平らげたばかりで
カラダも火照っていたからだった。

10分以上やったら
熱中症になる危惧があったので、
残念に思いながらも
早々に切り上げた。







帰宅したら、
玄関わきの自転車小屋に
何処からか舞い込んできた
タネが発芽したのか、
ユリが蕾をつけていた。

今日あたり
開花しそうな気配である。

なんだか、
漱石の『夢十夜』の
第一話を思い出してしまった。

死んだ女性が
ユリになって
男性の前に現れる、
という幻想的な噺である。






きのうも、
職場では福大教授の
『ハレンチ学園』事件が話題になり、
ネットでもさっそく
画像や非難コメントが
アップされていた。

福大のHPも見てみたら、
トップに学長の「謝罪文」が
アップされていた。

これから
調査委員会によって
処分が検討されて、
結果が出たら報告するとの事だった。

重ねて、
厳重な処分を
希望したい処である。