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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

傑作・韓流シネマ

2021-01-11 07:46:00 | 映画
録画してあった
『半地下の家族』を観た。

2019のカンヌでの
パルム・ドール受賞作であり、
アカデミー賞も4部門を受賞した。

2.5時間という
長尺物だったが、
前半の詐欺家族の巧妙な
化けぶりに笑わされ、
一転、後半からエンディングまでは
大ドンデン返し・・・と、
ジェットコースター的な
面白さがあった。

韓流ドラマは
『冬ソナ』を皮切りに
歴史物なども
諸々を観てきたので、
登場人物名や
その演技ぶりには馴染みがあり、
達者な演技も十分に楽しめた。




凄惨な結末ではあったが、
途中の若い二人の
仄かなラブストーリーは
なかなか韓流ならではの
胸キュン演出だった。

それを演じたのが、
『奇皇后』(2013)で
主人公の少女時代を
演じていたのは気付かなかった。

吹き替えの山路和弘は
『刑事フォイル』の声で、
好きな神木隆之介も
声優として主役を演じていたのも
よかった。

***

物語を分析的に見るのは
いささか野暮でもあるが、
この「マーダー・ケース」の
異常性、深層心理は奈辺にあるのか
ついつい探ってみたくなる。

富裕層の象徴としての
豪奢なサイドボードと、
その真ん中にポッカリ空いた
虚空のような地下室への入り口は、
見事に象徴的な配置であった。
そこは、我々の
ダークサイドへの通路でもあり、
そこからは少年が目撃したような
「オバケ」が現われもするのである(笑)。

三家族の「愛」が描かれていたが、
それぞれの家族が有する
真善美聖に反する
偽悪醜邪に拠る「綻び」が、
減衰振動の反対現象の
増幅振動し、やがて共振を起こし、
カタストロフィを招来する。

詐欺家族では
長女が犠牲となり、
富裕層家族では
家長が犠牲になり、
元家政婦と秘密の地下暮らしの夫は
両方とも死んでしまう。

悲劇を招いたケースの
「偽悪醜邪」は、
「嘘」「隠匿」「秘密」
「格差」「蔑み」「憎しみ」
「シンプル」
などがキーワードに上がりそうだ。

そして、
なぜか『サクリファイス』という英語が
「犠牲」と「生贄」という
両方の意味で思い浮かんだ。

そう。

亡くなった者たちは、
偽悪醜邪の果ての犠牲者であり、
それらを司(つかさど)る
「魔物」の生贄のように
見えたのである。

悲劇の直接の発端は、
詐欺家族一家が
主人家の留守をいいことに
酒盛りで乱痴気騒ぎをしていた時に
策略で追い出した元家政婦が
尋ねてくることに始まる。

この時、
大雨でずぶ濡れだったことが
なんともシンボリックで
印象的なシーンであった。

それは、
単に嵐の前兆というだけでなく、
「水」や「雨」に象徴される
「無意識」の恐ろしい力が
「意識」による現実世界を
圧倒し、破壊する、ということである。

これからしばらく後には
詐欺家族たちの半地下の住居が
大洪水で呑み込まれる
というシーンが描かれる。

いくらかの酩酊と
エゴ・インフレーションにより、
元家政婦を家に入れてしまったのは、
「その時」の判断や行動を誤った、
いわゆる、「魔がさした」のである。

それは、
心の「間」「隙」に
文字通り「魔」が
侵入することでもある。

そして、
「命運」「運命」が狂うというように
「命」は濁流に「運ばれ」て、
意識の世界は翻弄され、
「死」へと陥落する
観血的悲劇を迎えるのである。

元家政婦の哀願するセリフの
「同業者じゃないですか・・・。
後生ですから…家に入れて下さい・・・」
というのは、
まるで、瓜子姫をさらう
天邪鬼の甘言のようにも聞こえた。

むかし、狐狸庵先生のテキストで
さんざん悪魔について勉強したが、
その折、『エクソシスト』のような
脅かす悪魔は低級で、
ほんとの悪魔は「いないように振る舞い」
なおかつ「人の心地よさに付けこむ」
とあった。

家の施錠を解き、
「境界」の一線を
超えさせたことが、
すべての悲劇の始まりであった。

これが夢分析ならば、
「家」=「自我」「意識の世界」
「超えて侵入するもの」=「シャドウ」
(不幸をもたらす破壊的な無意識の元型)
とセラピストは解釈する。

なので、
「境界を越えないのが大事」
というセリフが、度々
犠牲者の社長が言っていたのは
後になって了解できる。

しかし、
人間関係の境界は守られても、
「臭い」というものは
致し方なく、その境界を
侵襲的に超えてくる。

この物語では、
「臭い」が「格差」「憎しみ」の
メタファーにもなっていた。

そして、それは、
そのまま衝動的な
殺人の動機にさえなったのである。

原題の『寄生虫/Parasite』と
邦題の『半地下の家族』という言葉から、
我われの意識的な自我を
時に操り翻弄し、破滅へと導くこともある
無意識下の元型である「影(シャドウ)」は
誰もが抱えており、
それに対して無自覚すぎると、
かの物語のような悲劇を体験する
・・・という、
現代の箴言のような作品のようにも
心理臨床家には思えた。

衝動殺人をした父に
「寄生」していた「影」とは、
世の不条理や理不尽に翻弄され
なにを商売しても上手くいかない人生と、
一方で、とんとん拍子で事業を成功させている
富裕層社長に対する、また、運命の神に対する、
筆舌に尽くせない葛藤・不満・憤りが
最後に「鬼化」して刃を向けてしまう。

これは、モヤモヤを言語化できず、
自傷他害の行動化(アクト・アウト)する
典型でもある。

流行りの『鬼滅の刃』に倣えば、
我われは、「鬼化」して
人に刃を向けるのではなく、
こころの「鬼」を滅するための
刃を己れ自身に向けねばならないのである。

トランプが煽って
死者まで出した
議事堂占拠事件なぞを観るにつけても
その思いを強くしている。

映画『パラサイト』では、
4人もの殺戮が行われた
凄惨な物語の結末は、
再度、地下に潜入し
息をひそめて生息する父(殺人犯)と
その父の存在の秘密に気付いた
息子(執行猶予中)との
「希望」の灯かりだった。

それは、まるで、
「パンドラの箱」が開いて、
世界に大いなる悲劇と不幸が
飛び出た後、
最後に残ったのが「希望」である、
という神話的元型に酷似していた。

とすれば、
現コロナ禍も
人類の偽悪醜邪に拠るものが
招来したものとすれば、
塗炭の苦しみを味わった後、
「希望」は失われず
其処に在る、ということを
信ずることが、其れもまた、
"希望"なのであろうか。

自らも
ナチの強制収容所の虜囚で、
終戦解放後に
名著『夜と霧』を著した
ヴィクトール・フランクルは、
独自の「実存分析」を唱え、
「希望」や「生き甲斐」こそが、
人を人たらしめて
生かしているものである、
と言っている。








皆川達夫先生の
古いテキストに基づいて、
そのご推薦のルネッサンス期のCDを
ヤフオクやアマゾンで
こつこつと蒐集している。

ルネッサンス初期の
声楽アンサンブルは、
グレゴリオ聖歌を基にしたものが多く、
女性合唱での清澄で深淵な響きは
修道士たちの斉唱とは違った
天国的なスピリチュアリティが感じられ、
こころの中に暗雲が垂れ込みがちな
コロナ禍の今、
一服の清涼剤や安定剤のような
癒しを与えてくれている。





R先生から頂いたお菓子籠に
「牛さん」マシュマロがあり、
可愛いので、よっぽど、
飾りものにしようか迷ったが、
でも食べ物なので、
エーイ! と、
干支を口中に放り込んだ(笑)。

なぜだか、
子どもたちが
幼い頃に流行った
♩『モウモウ・フラダンス』♩
のメロディーと画面が
脳裏に浮かんだ(笑)。





今朝のアサちんに、
すこしばかり
妖艶な表情を視た(笑)。

彼女は、
創作モチベーションを与えくれる
「美」のモチーフでもあり、
アニマであり、女神であり、
スピリチュアル・マドンナでもある。



女性的解決

2020-12-30 06:09:00 | 映画
先日、久しぶりに、
TV放映の『ナウシカ』を観た。

劇中に出てくる
腐海と瘴気とマスクが、
コロナ禍の今を
連想させるものがあった。

深層心理学的に解釈してみると、
「死と再生」がテーマである。

主人公は、
まだ少女の面影を残す
「姫様」と呼ばれる王女なので、
そのヒロインの
『貴種流離譚』でもあり、
「英雄神話」の類型でもある。

彼女には、初めから母がいなく、
病床の父は、突然の侵略者によって
亡きものにされる。
この時のナウシカの
「怒り」と『攻撃性』が
ハンパない(笑)。

アッ、という間に、
5、6人もの敵兵を
カギ棒のような武器で
打ち殺してしまう。

敵副将をして、
「あ~あ。
こんなに殺しちまって・・・」
と呆れもされる(笑)。

それでいて、
可愛い顔して
「自分の中の怒りが怖いの・・・」
と、メンター(導師)に
慄(おのの)いてみせる(笑)。

キツネリスに指を噛まれて
血を流しても、
やがて心を開かせて
相棒のようにしてしまう。

ビルのような巨大な虫・
王蟲(オーム)とも
金色の触手を介して
「心」を通じ合わせる。

ナウシカに対抗する
ヒール役の女性として
侵略者のクシャナもまた
王女である。

どうやら腐海のムシに
左腕を喰われ、
さらに、おぞましい傷跡も
カラダにはあるらしく、
それらを激しく憎み
絶滅させんと敵愾心を抱いている。

軍隊を率いて
ナウシカの父を殺し、
弱小集落の「風の谷」を
併合せんとするが、
ナウシカに命を救われたり、
彼女の「奇跡的な復活」を
目撃することで、撤兵することにし、
自身もまた、何がしかの
「死と再生」の通過儀礼を経験する。

物語は「勧善懲悪」的で
「自然礼賛」的で、
ともすれば、陳腐な
「予定調和」的でさえある、
といった批判もできそうだが、
<人の死>や<人類の絶滅>
といった負のイメージも包摂しており、
重層的で多義的な良質の
ファンタジーに仕上がっている。

劇画的アニメとしては、
久石 譲の劇伴が
見事にオペラ音楽のように
作品に重厚感を与えている。

「ナウシカとコロナ」を
対置させてみたら、
自然を蹂躙してきて、
尚且つ、紛争、格差、差別など
ちっとも真善美聖に目覚めない
人類社会の荒廃ぶりを正すには
ガラガラポンで、
一度すべてを無に帰すしかないのか…と、
ペシミスティックに考えてしまった。

そんな連想をしてたら、
コロナ・ヴァイルスたちが
圧倒的数で押し寄せて
都市や人間社会を
呑み込むように破壊し尽くす
暴走するオームの群れのようにも
感じられた。





もひとつ気付いたのが、
王女と王女の闘いの帰結が、
どちらも「怒り」と
「憎しみ」を超えての
「許し合い」という
女性的解決である。

ここに、
産業革命来、
男性社会が自然を破壊し、
政争、戦争を繰り返し
社会そのものをも
破壊しようとしている事への
処方箋が提示されている。

自ら子を産む女性は、
「自然的存在」なのであり、
それは「共存・共栄」という
生態系維持とあらゆる生き物にとっての
ユートピア形成には欠かせない
ガイア(母なる地球)なのであり、
真善美聖を体現させる性向なのである。

それに対して、
男性とは「社会的存在」に過ぎない。

『ナウシカ』に描かれていたのは
女性の中に潜む
「劣等機能」としての
粗野な男性性でもあり、
それは攻撃し、殺し、支配し、
蹂躙するもの・・・である。

男性の中にも
劣等機能としての女性性はあるが、
ユングはそれに「アニマ」と命名し、
それは「プシケ」すなわち、
「たましい・息・風」でもあり、
心的機能としては「創造性」や
「フレキシビリティ(柔和性)」を
もたらすものとされる。

ナウシカという
闘う戦士としてのヒロイン像には、
益荒男(ますらお)的な
「おとこまえ」ぶりが
感じられるだろう。

これは、闘う女神アテナイの
元型的イメージでもあり、
王族にして美的な少女が
困難に遭遇して
メンター(導師)に支えられ
「夜の航海」また「冥界」を
旅して、再び、現生に帰還する
という「英雄神話」の元型でもある。






『チェザーレ』の
12巻目がAmazonから届いたので、
これから、ゆっくりと
味わって読もうと思う。

ルネッサンス期の
イタリアの作曲家の音楽を
BGMとして聴きながら、
ビスコッティをおやつに
エスプレッソや
キャンティ・ワインを味わいながら
時空ワープ感覚をも
楽しんでいる。





散歩の目的として、
近所のツタヤまで出向いては、
ワンコインの古楽CDを一枚
買っている。

きのうは
イタリア・バロック期の
フランチェスコ・ジェミニアーニ
(Francesco Geminiani, 1687-1762)
のチェロ・ソナタを買ってきた。

使用楽器も1700年の
ガット弦の古楽器で
とても床しい音色がした。

ウィキに拠れば、
ジェミニアーニは、
作曲家・理論家と同時に
ヴァイオリンのヴィルトゥオーソでもあり、
英国の王侯貴族からの
庇護も受けている。

作曲家としては、
コレッリからヘンデルをつなぐ
存在であったようだ。

ドメニコ・スカルラッティの父
アレッサンドロや
アルカンジェロ・コレッリに
師事している。




古典絵画の雰囲気で描いた
油彩の静物画が
乾燥のあいだ放置してある。

この冬休み中に
すこし細部を描いて
完成に近づけたい。




ふだんは
お目にかからない
高級食材が
年末年始のスーパーには並ぶので、
フレンチ素材を物色しに出かけてみた。

合鴨のキュイソー(腿)があったので、
ソテーにしてみた。

料理には合わないので
あまり使う事のない
アズール系のドレッセに
挑戦してみた。

青系は本来、
食欲を減じさせる色だが、
食材を補色効果で
引き立てるには
有用なことに気が付いた。

眼には鮮やか過ぎる
コントラストだが、
これはこれで
有りかもしれない。

白地のプレートのように
余白を活かすよりも、
ゴテゴテとゴージャスに
盛り込むほうが
合ってそうだ。





枝付きレモンを
カットしたので、
その枝をも
ドレッセに利用してみた。

ジョーヌ(黄色)と
ヴェール(緑色)の
組み合わせが活きる
クレーム・ブリュレ
をデセールにしてみた。




時系列表記

2020-10-20 07:47:00 | 映画
最近、その日の時系列で
ダラダラ表記するようになったなぁ…
と忸怩たる気もしてるが、
ま、いっか…である(笑)。

ままよ…である(笑)。

***

今日は
10時から市民検診があるので、
朝から何も口に入れていない。

年に一回の
メタボ健診でもあるが、
今回もこの日に照準を合わせ
目標値まで痩せれずに
残念だった。

歳ぃとると
基礎代謝が低下してくるので
ちょいと喰っても
運動しないと
なかなか効率よくは
燃えてくれないようだ。

段々と“不燃性”の
カラダになってきたのだろう。




「食欲の秋」でなくも
一年中、喰い意地が張ってるので、
食に拘泥している。

これは子どもの頃からの
傾向のようである。

母親が料理下手だったので、
美味しいものは
自分の手で作るっきゃない
と子ども心に思ったのを
覚えている。

そして、
昭和30年代の我が家は
共稼ぎでも
裕福ではなかったので、
いつかは「御馳走」という名の
「フランス料理のフルコース」を
食べるのが夢だった。

そして、
お鮨屋さんのカウンターに座って
あれこれ好きなものを
握ってもらうのも夢だった。

社会人になってから、
殊に、大阪と京都に住んでからは
その両方は実行すべく
足繁く通った。

独学のための
鮨とフレンチの書籍には
ずいぶんと費用を投じた。

今でも、
それ関連のものとの
縁は切れていない。

きのうも
ツタヤ・ブラウジングしてて
愛読している倉田よしみの
新刊の鮨コミックがあったので
買ってきた。

一気読みしたが、
さしたる内容もなく、
面白くもないギャグに
やや辟易してしまった。

それでも、
一場面だけ、
ほぉ…と、感心する
フレーズがあった。






おとつい
デセール用に使用した
新しいプレートに
ランプ・ステーキを
二種試作してみた。

ここの処、
裏庭のザクロが
ルビー色のアクセントと
パンチの効いた酸味として
大活躍である。

グレナデン・カクテルにも
なってくれている。

市販のイチジクも
高価だが、
好物なので
どうしても外せない。

それと、
この一年、健康食品として
ずっと欠かしてこなかった
ブロッコリー・スプラウト。

これとアーモンドが
脂肪肝の治療効果がある、
というので一年間試してきたが、
果たして今日の健診で
肝機能が有意な数値変化を
前年度比で示されるかが
人体実験的に楽しみである。

効果がなければ、
『ためしてガッテン』情報も
信憑性がないことになる(笑)。






オーストラリア産の
ランプが140gで
400円だったので、
チャンク(塊)とカットの
二皿を拵えてみた。

シングル・プレートと
ダブル・プレートでも
ドレッセを変えたら
別のクイジーヌ(料理)のような
スタイルになった。

オフ日の“ぼっちランチ”なので、
どちらも試作後は
ひとりで味わって、
ソースのキレがイマイチだなぁ…
とかブツブツと自己採点している。

それでも、
下手なレストランよりは
各段に美味だし、
金ぇ取れるレベルには
なってきたかなぁ…
とも思っている(笑)。








昨晩は、
同僚のR先生から
教採合格の吉報メールがきて
我が事のように嬉しく思った。

そしたら、
続けざまに
ギターのお弟子さん
「ハッシー」からも
「合格しました」の吉報が
舞い込んで、
嬉しさが二倍であった。

R先生は
自分の人生と向き合うべく
教育分析を始められたばかりで、
毎週、熱心に通ってこられて、
弟子志望もされたので、
「心理のお弟子さん」とした。

そんなんで、
弟子ふたりの合格を
毎晩、ご神前で
ご祈念させて頂いていたが、
駄目だった時のことも考えて、
どちらにも、
「その時は…
その現実を尊重しましょう」
と前もって説いていた。

ほぼ、同時に
ギターと心理の
お弟子さんから
合格メールが届き、
すぐさま、ご神前で
神様に御礼を申し上げた。

心中では、なんだか、
(やったね! 佐々木組!!)
みたいな、
久しぶりに
担任のような喜びを
味わわせて頂いた(笑)。

ほんに、
ありがたい事である。

R先生から
発表前日に、
信号待ちの間に見られたという
夕景の画像が送られてきて、
そこに写っていた
「彩雲」が吉兆だといいなぁ…
とあったので、
そうあってほしいと願い、
作品化して返信した。

ご本人からは
「ぜひ、FBに載せてください!
 あの彩雲は、吉兆でした…」
とのことだった。

サインには
先生のベリーダンサーとしての
舞台名を入れてあげた。





この処の寒さで、
いよいよ、きのうから
冬布団に電気毛布を
セットした(笑)。

コタツ代わりに
そこに入って
ぬくぬくしながら
録り溜めた映画を観た。

『クリムゾン・タイド』は、
もう三度目くらいだが、
デンゼル・ワシントンと
ジーン・ハックマンの
核戦争寸前の一触即発の丁々発矢に
今回も目が奪われた。

潜水艦物が好きなので、
たいていの作品は観ている。

『プラダを着た悪魔』は、
女性ファッション界を巡る
凄まじくアグレッシヴな世界が
描かれていた。

大女優メリル・ストリープと
若いアン・ハサウェイとの
新旧ぶつかり合いが
火花を散らしていた。

それは、先日観た
『日々是好日』の
樹木 希林と黒木 華との
ぶつかり合いとは好対照で、
両作品を比べてみると
なかなかに面白い。


仕事に修復に映画に料理

2020-10-01 06:16:00 | 映画
四連休を挟んで
二週間ぶりに
T中に出勤した。

他用で使われた形跡もなく、
部屋の空気が澱んでいたので
入室するなり換気したら
物々の発する臭いも一掃され
新鮮な軽い空気に
入れ替わってくれた。

南向きの部屋なので
グランド側の窓からは
日光が燦々と射し込み、
きのうは30℃まで
室温が上昇したので
窓を閉めて大型エアコンを
久しぶりに稼働させた。




2週間分の
生徒に関する動静の資料が
職員室デスク内に
蓄積されていたので、
それに目を通し
ファイリングするのに
小半時要した。

それが済むと、
連休中に買い集めてきた
箱庭療法用の遊具を
開封して分類作業をした。

予約の生徒が来るまでは
これまでのカウンセリング状況と
問題・症状の経過なぞに目を通し、
“治療戦略”を練る。

スクール・カウンセラーとは
「学校相談者」だが、
その実、サイコ・セラピスト
(心理療法家)ということは、
案外に世間には認識されていない。

なので、
来談されるクライエントたちは、
相談に来ているうちに
何となく問題が解決したり
症状が治ってしまう…
という感じなのだろう(笑)。

もっとも、
それでいいのだが…(笑)。




数年前に
ギター弟子だった
ガッちゃんから頂いた
備前のぐい呑みを
床に落っことしてしまい
粉々になってしまったので、
立体パスルのように
接着剤で修復した。

生漆による
金継ぎだったら
また酒器としても使えたろうが、
なにせ瞬間接着剤で直したので、
口を付けるのが
憚られるから、
もっぱら鑑賞用として
飾っていた。

きのうは、
ふと思いついて…
「そうだ!
手習い用の水盥(すいう)として
第二の人生を活かしてやろう」
と思いついた。

茶道には
「一器四用」という
使い回しを良しとする
習わしがある。

茶聖の利休は
「目利き」「見立て」の
天才でもあった。

もともと
高麗の雑器だった茶碗を
侘茶に採り入れたり、
農家の納屋の設えから
“にじり口”を考案したり…と、
基本となる形を独創したのである。

いくつもある
オリジナリティの中でも、
その最たるものは、
旅の途中で青竹の一節に
花窓を切り付けて仕上げた
「青竹一重切」の花入である。

凡人は見向きもしない、
目にも留めない
ただの竹を
茶聖の手に掛ると
それは見事な侘茶の道具に
昇華するのである。

これを、
美の天才の
「見立て」と言う。




BS録画で
フェリーニ監督の
54年作品の『道』を観てみた。

学生の頃、
一度、視かけたが
途中で退屈になって
やめてしまった記憶がある。

若者には
やはり理解し難い
味わい難い
地味な作品である。

劇中に流れる
ジェルソミーナのテーマ曲は、
昭和の頃には、
けっこう有名であったが、
物語は辛気臭く、
ラストシーンも現代では
ややベタな気もしないでもない。

でも、
決して二枚目ではない
アンソニー・クイーンの
独特の粗野な風貌と存在感が
作品に重みを与えてはいる。

大道芸人の悲哀感が、
古賀政男の描いた
『サーカスの唄』を
彷彿させてくれた。





オーヴン任せの
『ラグー・ド・ブッフ』を
創ろうと思ったら
程よい牛の塊がなく、
仕方なく、豚ヒレで代用した。

1時間タイマーの
レンジを4回も回して火入れし、
一晩、放置して味を浸み込ませた。

煮汁を煮詰めて
ブールモンテ(バター繋ぎ)して
ソースとした。

蒸した
バターナッツ・スクワッシュ
(瓢箪南瓜)を
セルクルで片抜きし、
マスカットを飾って
ガルニチュール(添え合わせ)
にした。

ナイフを入れると
ホロホロと実が崩れるように
柔らかだったので、
カミさんが
「おサカナみたいだねぇ…」
と感心していた(笑)。







今日は38℃

2020-08-11 06:42:00 | 映画
連日の猛暑続きで、
コロナでなくも、
家に巣ごもりするようである。

きょうは、
38℃という予報である。

クーラーなしでは
熱中症必至なので、
またまた
“お部屋の様方”になりそうだ(笑)。

一晩中、
網戸が明け放したままなのに、
二階の廊下は朝から28℃もある。

湿度も70%超えてるので、
快適とは言い難い。

なので、
朝5時から
エアコンをつける始末である。





きのうは録画していた
『この世界の片隅に』を
観てみた。

以前に、
実写版のドラマを観ていたが、
アニメは話題になっていたので、
どう違うか興味があった。

戦時色が色濃くなる前の
最初の方は、
広島ののどかな風景が
ハートウォーミングなタッチで
描かれていて、佳いものだった。

呉港に戦艦大和が入港するシーンは
写実的に描かれ、
瀬戸内ののどかな風景に
武装だらけの戦艦が
不思議にマッチしていた。

原爆投下後の描写には、
片腕を吹き飛ばされ
半身にガラス片の刺さった
むごたらしい母親の姿が登場し
目をそむけたくなった。

ヒロインも不発弾で
片手を失うという
容赦ない戦争の惨劇を
克明に描いている。

被爆国にしてアニメ大国の日本が
「反戦映画」として
世界各国に配給したそうだが、
それでいながら国家政府は
核拡散防止条約に批准していない、
という大きな矛盾を抱えている。

核保有する
中共・北鮮が隣国にあり、
日米安保条約がある以上、
苦渋の戦略なのだろうが…。




コロナ禍で
長らく「仏像」と
「祈る母」のテラコッタを
玄関の室礼に据えたまま
改めなしに数か月が過ぎた。

毎日、書の稽古をしてるので、
そろそろ作品を一つ仕上げようかと
『五体字辞典』を引きながら
書聖・王 義之(おう ぎし)の字を
集めて創作してみた。

今回は、
墨ではなく
俳画で用いていた
顔彩を調合して
縹色(はなだいろ)という
藍色より薄く
浅葱色より濃い色にしてみた。

これは、
古くは 『日本書紀』に
「深縹/こきはなだ」とか
「浅縹/あさはなだ」という
官位を現わす服色名として
見られるものである。

平安時代には、
藍染の材料として
ツユクサの色素が用いられたらしい。

「秋風 有り難し」

・・・という句は、
猛暑が40日も続いた
何十年か前に、
東京教会の先生から
頂いた暑中見舞いに
書かれていた一言である。

6本ある小筆で
手漉き画仙紙に
何枚か書いてみて、
ハネや連綿の気に入ったものを
色紙表具にした。

狂い咲きした木瓜(ボケ)を
書斎から中国製水指に移し替え
筏花台に合わせてみた。



昨晩は、
夕食後から
かねてから用意してあった
マーラーの『3番』の
スコア・リーディングをした。

40年来の愛蔵書
『交響曲名曲名盤100』
(1979/諸井 誠)で
ハイティンクを一押ししていたので、
初めてYouTubeで聴いてみた。

なにせ、かつては
「最長交響曲」とも
言われていたほどなので、
110分もある超大曲である。

今はブライアンの
『ゴシック交響曲』(114分)が
最長らしい。

マーラーの曲もすごいが、
ハイティンクの指揮も
さすがに凄かった。

これまでは、
スコアは見ずに
ショルティ、バーンスタイン、
マゼールなぞを聴いてきた。

それぞれに名演ではあるが、
ハイティンクは
スコアに忠実でありながら
感動的に再現している。

マーラーの他曲と同じく
テンポや強弱が
頻繁に変わるので、
オケを完璧にコントロールし
ドライヴするのは、
そうとうな手腕がいることだろう。

9/8拍子といった変拍子や
4拍子で7連符なぞが出てきたり、
どうやって
カウントしてるんだろうか…と、
自分にはとうてい
弾ける気がしなかった。

YouTubeでは
オロスコという
コロンビア人指揮者の
振りを見てみたが、
なんだか、オーバーアクションで
よく解らなかった(笑)。