富に仕えて神を疎む

 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

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 思うに、現代の多くの人のたましいは、何かに覆われてしまってわからなくなっているような気がしてならない。
 希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。少し前の時代の少なくない人々も同旨のことを書いている。
 この、流されて生きていることが、たましいが見えなくなっていることに他ならない。
 「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」というイエスの言葉そのものの意味が分からない人も多いかもしれない。
 人々は富に仕えて神を疎むことを選択し、口座の満たされることを望んでたましいの満たされることを放棄してしまった。
 ほんとうに人を満ち足らせるのがどちらかなのかは、この時代が過ぎゆく中でますます明らかになっていくだろう。

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自分の十字架

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
 さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:34-38)

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 イエスは上の聖書箇所で、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言う。
 では、「自分の十字架」とはなんであろう。

 イエスにとっての十字架とは、すべての人の罪の赦しと救済にあった。
 ローマ帝国支配下での極刑である十字架を背負って、ゴルゴダの丘へと向かう。
 これはまさに、すべての人を背負ったのだ。
 私たちが今あるのも、このイエス、肉を持つ神の御技による。

 私たちひとりひとりが背負う十字架は、ここまで重たいものではないが、やはり重たい。
 文脈を辿っていくと、この十字架は、剣を持って家族に逆らい彼らを敵に回すものである。現代を考慮すると、会社組織の関係性も入るかもしれない。
 イエスの言うように、また実際そうであったように、すべてを敵に回して自分の十字架に死に、そしてよみがえる。
 世間での価値観とは全く異なる満足感が、この先にある。何しろ創造主と和解するのだ。

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借り物の言葉、自分の言葉、聖霊の言葉

 「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19-20)

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 ある人から聞いたことなのだが、その人のとても辛かったときに「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(1コリント10:13)という言葉が聖書にあると言われて猛烈に腹が立ったそうだ。
 なぜそんなにも腹が立ったのだろう。
 その人が聖書に何の関係も関心もなく、それどころか忌避していたからかもしれない。
 あるいは、こういうみことばがあるぞと大上段に振りかざすばかりで、その人への気遣いや思いやりがまるで感じられなかったからかもしれない。
 なにより、これを言った人にとってもこの文言が借り物の言葉にすぎないので響くものがなかったことは想像に難くない。

 自分でいうのもなんだが、私は自分の言葉で伝えることができる。
 雑談などをしていた後、あー今のは聖書の話を自分はしていたなあと気づくことがたまにある。
 聖書の言葉を使うことは全くないし、話している最中は聖書をまるで意識していない。だが、確かに聖書の内容を話したことには違いがなかった。
 相手がどう受け止めたかは分からないが、少なくとも違和感は感じないはずだ。
 聖書の話に限らず、自分の考えや気持ちを伝える上では、自分の言葉を持っているか、借り物の言葉にすぎないのかはかなり違ってくると思う。

 しかし、その自分の言葉なんかよりもずっと大切なものがある。
 それは内住の聖霊の言葉である。
 イエスは「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言っている。
 自分のまったく思いもよらないことを言うことが、ほんのときどきある。
 頭の計算なんか遙かに超えて、そのときぽんっ飛び出してくる。
 大抵は自分の窮しているときで、言った自分自身が驚くし、相手も理屈を超えて納得してしまう、そういう類いの言葉だ。

 聖書は、この聖霊が恵みによってその人の内に住んでくださることを約束している書物である。
 聖霊は私の一番の味方であり、私の最強の弁護士である。
 聖霊は私を先導してくれ、私の存在を唯一守ってくれる。
 自分に頼る者よりも一見弱そうなのだが、実は強い。
 だがそれは、私が強いのではなく、和解した御父、創造主の強さなのである。

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