借り物の言葉、自分の言葉、聖霊の言葉

 「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19-20)

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 ある人から聞いたことなのだが、その人のとても辛かったときに「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(1コリント10:13)という言葉が聖書にあると言われて猛烈に腹が立ったそうだ。
 なぜそんなにも腹が立ったのだろう。
 その人が聖書に何の関係も関心もなく、それどころか忌避していたからかもしれない。
 あるいは、こういうみことばがあるぞと大上段に振りかざすばかりで、その人への気遣いや思いやりがまるで感じられなかったからかもしれない。
 なにより、これを言った人にとってもこの文言が借り物の言葉にすぎないので響くものがなかったことは想像に難くない。

 自分でいうのもなんだが、私は自分の言葉で伝えることができる。
 雑談などをしていた後、あー今のは聖書の話を自分はしていたなあと気づくことがたまにある。
 聖書の言葉を使うことは全くないし、話している最中は聖書をまるで意識していない。だが、確かに聖書の内容を話したことには違いがなかった。
 相手がどう受け止めたかは分からないが、少なくとも違和感は感じないはずだ。
 聖書の話に限らず、自分の考えや気持ちを伝える上では、自分の言葉を持っているか、借り物の言葉にすぎないのかはかなり違ってくると思う。

 しかし、その自分の言葉なんかよりもずっと大切なものがある。
 それは内住の聖霊の言葉である。
 イエスは「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言っている。
 自分のまったく思いもよらないことを言うことが、ほんのときどきある。
 頭の計算なんか遙かに超えて、そのときぽんっ飛び出してくる。
 大抵は自分の窮しているときで、言った自分自身が驚くし、相手も理屈を超えて納得してしまう、そういう類いの言葉だ。

 聖書は、この聖霊が恵みによってその人の内に住んでくださることを約束している書物である。
 聖霊は私の一番の味方であり、私の最強の弁護士である。
 聖霊は私を先導してくれ、私の存在を唯一守ってくれる。
 自分に頼る者よりも一見弱そうなのだが、実は強い。
 だがそれは、私が強いのではなく、和解した御父、創造主の強さなのである。

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 ヨハネ伝の10:28まで続けて読んできましたが、しばらくアトランダムに進めます。

 健やかな一日をお祈りします!

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