ソロモン王の得たちょっとのものと見失ったあまりにも大切なもの

 「私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。
 知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。
 私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい。」と。
 事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。」(伝道者(コヘレト)2:13-16)

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 ソロモン王の言う「知恵」、「愚かさ」というのを現代語に意訳すると、「有能」、「無能」(あるいは「できる」、「できない」)というニュアンスではないかとと思う。

 「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか」、続けて、「これもまたむなしい」と、ソロモン王はいう。
 これも自分なりに意訳すると、有能で多くの仕事で成功しエルサレムで一番の人間になろうが、無能な怠け者で何一つすることのなかったクズであろうが、死んじまったら何も変わらんじゃないか、ということだろう。

 それではソロモンに言わせてもらうが、有能/無能の二分法で分けたり、あいつはこういうことに使えそうだという視点でしか人を見るしかないのなら、人の存在を認めることがないのであるから、むなしさというか、虚無に陥るべくして陥ったのではないか。
 俗にいう人と人とのふれあいというのは、相手が王様だとか社長だとか、あるいはアルバイトだとか、そういう肩書や属性とは本質的には関係のない血の通ったやりとりではないだろうか。いわゆる潤滑油と呼ばれるやりとりの類もその一つだ。しかし、相手が有能か無能か、どんな肩書かが先に来てしまう人は、頭だけの情報交換にばかり神経が行き、血の通ったやりとりなど求めていない。何しろ話し相手は存在などではなく物質なのだ。
 血の通ったやりとりを通していきいきとした感覚が湧き上がってくることは、大体の人には経験的にわかっている(こういうのが「知恵」である)。ところが相手を物質として見るのであれば、血の通いようもあるはずがない。

 資本主義が高度に発達した現代では、誰もがソロモン王にあこがれ、ソロモン王になりたいと願っている。
 しかし、そのソロモン王は、「みな、同じ結末に行き着く」と書いている。
 上の聖書箇所を書いた老ソロモンは、いったい何を得たというのだろう。
 得たものは、実は欲しいものではなかったことは明らかだ。

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[一版]2020年 6月 4日
[二版]2020年12月27日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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