誰のための愛か

 「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:10)

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 私は、この愛ということばは使わないことにしている。
 あまりにも茫漠としていて、何かごまかしているように、あるいは何かごまかされているように感じるからだ。
 だから私は、ごく身近な人々には、「自分には愛なんてわからない。ちっともわからない。」と、憚ることなく公言している。
 そう公言する私に対して、愛情に恵まれることなく育ったのではと憐れむ人もいたかもしれない。

 しかし、愛が分からないというのは自分だけだろうか。他の人もたいして変わらないのではないだろうか。
 私が教会というところに行き始めた頃のことなのだが、私は治療上の必要があって睡眠薬その他を服用していた。
 それをどこかで聞きつけた老人が私のとことに来て、二言目には「睡眠薬は毒だからやめなさい。」という。
 「いや睡眠薬がないと眠れないんですが。」
 「睡眠薬は毒だからやめなさい。代わりに、私がやっているノーポルカ健康法をやりなさい。」
 「いや眠るためなので、健康法ではなくて睡眠薬が必要なんです。」
 「いやともかく睡眠薬は毒だからやめなさい………。」
 こんな押し問答が長々と続いた。
 ノーポルカ健康法のパンフレットをしぶしぶいただき、また治療中の身で藁にもすがりたい気持ちもあって、そのパンフレットに書かれている体操のようなものもやってはみた。
 ややしばらくして、今度はその老人から自宅に手紙が届いた。
 封をあけると、振込用紙と一枚紙が入っている。
 読むと、ノーポルカ健康法の会員におかれましては年会費をお支払いくださいという趣旨のものだった。
 教会の事務の人によれば問われて仕方なく住所を教えたとのことで、プライバシー保護の意識がまだ希薄だった頃のことだ。

 顧みるに、この老人の親切は、私のためであっただろうか。
 この老人はそうだと言うだろう。
 だが違う。自分のためだ。しかも自分のためだけだ。
 だから愛とは何かはさておいても、誰のためかは常に問われる。
 相手に重心が置かれるのか、それとも自分に重心が置かれるのか。
 上の聖句「愛は隣人に対して害を与えません」にしても、あの老人の愛は私には害悪でしかなかった。老人が専ら自分に重心を置いているからで、私からすると要らぬお節介なのだ。

 ペテロは鶏が鳴くまでに3度イエスを否んだ。
 やはり自分にのみ重心を置いていたからで(もっともそうせざるをない状況だった)、改悛の涙はイエスを思ってなどいなかったことに思い至ったからかもしれない。
 愛とは何かは分からないが、要らぬお節介は愛ではない。
 完璧になど誰もできないが、少しでも意識して相手に重心を置いてみよう。

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 ヨハネ伝の10:28まで続けて読んできましたが、しばらくアトランダムに進めます。

 健やかな一日をお祈りします!

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