自分の十字架

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
 さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:34-38)

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 イエスは上の聖書箇所で、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言う。
 では、「自分の十字架」とはなんであろう。

 イエスにとっての十字架とは、すべての人の罪の赦しと救済にあった。
 ローマ帝国支配下での極刑である十字架を背負って、ゴルゴダの丘へと向かう。
 これはまさに、すべての人を背負ったのだ。
 私たちが今あるのも、このイエス、肉を持つ神の御技による。

 私たちひとりひとりが背負う十字架は、ここまで重たいものではないが、やはり重たい。
 文脈を辿っていくと、この十字架は、剣を持って家族に逆らい彼らを敵に回すものである。現代を考慮すると、会社組織の関係性も入るかもしれない。
 イエスの言うように、また実際そうであったように、すべてを敵に回して自分の十字架に死に、そしてよみがえる。
 世間での価値観とは全く異なる満足感が、この先にある。何しろ創造主と和解するのだ。

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 ヨハネ伝の10:28まで続けて読んできましたが、しばらくアトランダムに進めます。

 健やかな一日をお祈りします!

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