死ぬことを受け入れる信仰

 「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:41-44)

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 レプタのやもめの箇所。

 聖書が約束する「いのち」は、イエスと同様に、死んでよみがえることによって初めて賜ることができる。
 私たちの十字架はイエスが身代わりになってくれたが、極刑に処せられる苦しみに預かることにかわりはない。
 この苦しみに死んで初めて、イエスのように復活して「いのち」に預かることとなる。

 レプタのやもめは、所持金全額を献金してしまう。
 彼女が何故そうしたのかはわからないが、なにかの苦しみの末、全てを神に委ねるほかなくなってしまったのではなかろうか。
 自らの全体重を神に委ねてしまい、自身は死ぬ。
 そのように死ぬこと、これこそ死んでその後どうなるかについて信じるということであるから、イエスは彼女に特に目を留めた。
 レプタのやもめは、いわば、信仰の型なのである。

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