神の愛という事実

 「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)

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 「私」の確信は、「どんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と要約できる。

 ここで、神の愛とは何だろうか。
 神の愛とは畢竟、アダムの肉を持つ人間への赦しである。
 御子イエスを極刑の十字架につけることで肉を処罰し、そのイエスをよみがえらせた。
 私たちも恵みによって、イエスの歩んだこの道を歩むこととなる。
 復活のイエスとの出会いによって、アダムの肉は極刑に処せられ、よみがえって罪赦される。

 神の愛、つまり、復活のイエスとの出会いによる死とよみがえりというのは、教えに終わるものではない。
 すなわち、単なる信心の対象なのではなく、端的にその人にとっての事実なのだ。
 その事実は疑いようもないものなので、それを体験した私たちはこの神の愛から離れることは決してない。

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