わけありとたまたま

 「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」(マルコ1:16-20)

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 シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、イエスからの召命を受けて、そこにあるものを捨ててイエスについていったのが何故なのだろう。
 彼らが「義に飢え渇いている」(マタイ5:6)ことを自覚していたからだろうか。

 それはともかく、イエスが声を掛けたのは、ここではこの4人だけだ。
 この港には、漁から戻ってきたもっとずっと多くの人がいたことは、想像に難くない。
 シモンがイエスから声を掛けられたのは、シモンにリーダーシップが見いだされたとか、シモンの働きぶりがよかったとか、あるいはシモンがいきいきしていたとか、そういうことではない。

 イエスがシモンを見いだしたのは、たまたまなのだ。
 たまたまイエスの視界にシモンが入ったので、シモンに声を掛けられた。
 これが恵みの世界なのである。
 その人の素質やスキル等で召命されるとしたら、それは恵みではなく、単なる因果になってしまう。
 ここで、因果というのは、例えば「奉仕の掃除をしたから救われる」という、いわばわけありの救いの理屈である。違う宗教だが「お百度参り」も、因果に乗っ取った考えだ。
 しかしそれと違って、イエスは「たまたま」声を掛け、お救いになる。
 そうすると、行ないという因果関係ではなく、恵みというあわれみによって救われる、というのが、イエスが導入した原理なのだ。

 イエスが「たまたま」声を掛ける人が多いのか少ないのか、恵みに預かる人が多いのか少ないのかは、私ども人間の人知を越えたところにある。

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