蒔かれた種

 「そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」(マルコ4:13-14)

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 種まきのたとえより。

 数々のみことばが、聖書からそれを読む人に蒔かれている。
 その蒔かれた種が、芽を出したり、あるいは出さなかったりする。
 蒔かれた全ての種から芽が出る必要はない。
 数々のうちから、ひとつだけみことばからが出るなら、聖書の目的は達せられる。
 みことばを悟り、悔い改めて、赦される(12節)。
 「悔い改め」とは、自分からすることではなく、突きつけられて受動的にそうするのであり、ヨブ記に詳しい。なお、この言葉は、「十字架に死ぬ」という、日頃ここで頻用する語句と同じである。

 みことばは、ある時にその人の中にするりと入り悟りへと導く。
(アウグスティヌスの「告白」が、このことを書いている。)
 そして、その人がどのみことばから悟るか、というのは、人それぞれのようなのだ。
 だから、種蒔く人の蒔いた種は、まんべんなく自分の「地」に受け入れた方がいい。

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