正しい人

 「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:14-17)

---

 イエスは仰る。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。
 イエスの弟子に囁いたパリサイ人は、自分が「正しい人」だと思っている。
 だが、こういう人間が救いに預かることは決してない。
 第一本人が救われようなどとは思っていないから、イエスの招きにも応じるつもりはないからだ。
 一方、救いを切実に願っているのは、レビをはじめとする罪人、取税人である。
 社会からもそう言われ続けてきた。
 彼らは自分自身の罪深さを自覚しており、イエスに救いを見いだしている。
 彼らが天の御国にずっと近いのは、そのためである。

 端的に、神の御前に「正しい人」などいない。一人もいない。
 律法が、そのことを人に悟らせるということは、イエスの山上の説教からも明らかである。
 神の律法に忠実で自分は正しいと思っているパリサイ人は、正にそのこと故に救いがたく、本来、イエスという医者を最も必要な存在であったろう。

 そのように、自分が正しいと思っている人には、イエスも、神の恵みも、イエスの救いも、全く無縁だと思う。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )