裏切り

 「夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。
 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。
 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。
 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マルコ14:17-21)

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 最後の晩餐にて。
 イエスは、この十二弟子のうちのひとり(イスカリオテ・ユダ)が自分を裏切ることを、予め知っていた。
 そのように予め知っていたのは、イエスが神の子だからである。
 そのイエスは、一方で「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」とも言う。
 恨み節とでも言おうか。
 人間の肉のなせる心の情動だろう。
 イエスが人間の肉をまとった神、という矛盾した存在であることは、この裏切りの件からも分かる。
 その肉を処分して赦しを与えるための十字架に、イエスはこれから架かるのである。

 十字架の道の途上でこのような裏切りの類に遭うことは、避けられない。
 裏切られ、見捨てられ、唾をかけられ、むち打たれ、そして極刑に処せられる。
 それが、唯一の生きる道なのだ。
 実際イエスは、復活する。
 そうすると、ユダは何故裏切ったのかとか、あるいは、裏切りの卑劣さとかは、ここでは本質的ではない。
 ただ、十字架の道中には裏切りのような許し難い目に遭う、ということを、イエスは私たち同じ十字架の道を歩む者に予め示してくださっている。

 恵みによって、この種の裏切りに遭うことは避けられない。
 肉を持つ身には恨み節が口をついても、確かに自分が十字架の道を歩んでいることを確認して喜ぶことは出来る。

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