施しの報いは神からのものか、人からのものか

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1-2)

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 ある歌手は、「しない善よりする偽善」と言っている。また、その人の奥さんのこれまた歌手は、かつて東北の大震災があったときにトラック10台を連ねて何でも提供できるようにという趣旨のことを当時言っていた。
 まさに自分の前でラッパを吹いているわけだが、こういう人たちの受ける報いというのは、歌手としてのブランドイメージの向上ということになるのだろうか。
 だが、善と偽善とは似て非なるものであり、トラック10台で駆けつけたとしても、それは果たして被災地の隣人たちを愛しているからなのだろうか。この人たちを想っていてのことだろうか。むしろ、この人たちを踏み台にして自分のブランドイメージを高めているとすれば、偽善というより悪だろう。
 そうではなく、もっぱらその人のために施すときに御父が報いて下さるとイエスは言う。どういうところから出た行動なのか、その心の内を御父はご存じなのである。

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 イエス様の平安がありますように!

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