罪の自覚ということ

 「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。……
(……例え話から事件の説明へ……)
 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。
……
 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」(2サムエル12:1,9,13)

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 上のタイトルは、今日の聖書箇所とちょっと違うかも知れない。
 ただ、ここのところ、この事柄について書き続けてみたので、もう一つ。

 ダビデ王。
 神から油注がれ、イスラエル王国を建国する。

 その「油注がれた者」ですら、大罪を犯し、預言者ナタンに叱責される。
 王様という地位にあるのだったら、そんなこと言うやつは首でもはねてしまえばよいものを、「私は主に対して罪を犯した。」とダビデは言う。

 どういう思いをめぐらした末に、この短いフレーズをどのような表情でナタンに言ったのだろう?

 建国しようが戦争に強かろうが、どこまでいっても自分は罪を犯す存在ではないか。
 女には弱いし、その女を手に入れるためなら、夫を策略に掛けて亡き者にさえしてしまう……。
 罪は、ある。大きい。自分は罪人だ……。

 ダビデ自身、こう詠っている。
 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。
 砕かれた、悔いた心。
 神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:17)
(この詩は、まさに上のことがあったのちに詠まれたものだ。)

 ここでダビデが用いている「砕かれたたましい」、「悔いた心」、これらリリシズムあふれることばたち、それらをコチコチに固くすると、冒頭の「罪の自覚」というタームになるはずだ。
 そしてこの「罪の自覚」こそ、たしかに「神へのいけにえ」に違いない。
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