『罪 ( guilty ) 』と『罪( sin ) 』

 「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」
 するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです。」と言われた。
 ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。」(ルカ23:1-4)

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 ピラトは、 " not guilty " と言っている。
(ちなみに2つの英語聖書を調べたが、上のような言い回しでは書かれていない。)
 総督ピラトの仕事は、ローマ法に照らして適法か違法かを判断することだ。
 もっぱらローマの利益のために。

 ところで自分のことになるのだが、どうやら自分は " not guilty " らしい。
 昨年9月、土砂降りの中、自転車を跳ねてしまったのだ。
 どんな事故状況だろうが、「重量則」の前には私が100%の加害者だ。
 軽い事故で相手側にケガはなかったが、念には念を押して病院に行っていただく。捻挫も骨も、大丈夫だったようだ。
 こうして、粛々と事故処理をしたあと、お巡りによる調書作成が行われた。
 作成された調書は、検察に送られるとのこと。
 起訴されたら私に連絡が来る。
 不起訴処分だったら、音沙汰はない。
 つまり、自分が " not guilty " であるというのは、よほどしてやっとどうにか確信めいたものを持っても良さそうだ、という以上のことは分からない。
 昨年9月で今は6月だから、さすがに " not guilty " と思って間違いないだろう。
(お巡りは検察のアクションは2ヶ月くらい掛かる、と言っていたから。)
 通知の類は、いまだ来ない。
 自分が「罪」を犯しているかいないかがはっきりしないというのは、きわめて居心地の悪いことだ(った)。

 上の聖書箇所で、ピラトはイエスに、あっさりと " not guilty " の認定を下している。
 イエスが問題にしたいのは、 " sin " だ。
 しかし群衆も混じって、事は激しい憎悪の次元へと至ってしまう。
 「罪」も「無罪」もあったものじゃない。
 自身の治世能力をローマ帝王に疑われると立場が危なくなるピラトは、もっぱらそのことを理由としてイエスを十字架に付ける。

 " guilty " は、有罪/無罪を告げてくれないことには、たとえ無罪であっても座りが甚だ悪いことを上に書いた。
 ところが " sin " はそれと全く違って、日常的に犯しているのに、ちっとも本人は気付かない。
 教えてくれる「人」もまた、いない。
 祭司長なんてのは、その最たる存在だろう。
 パリサイ人・律法学者という人種は、他人の安息日違反という " sin " には感心するほど目配せができるくせに、自身のそれにはまるで気付かない。
 そのような存在について、イエスは次のように仰っている。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:3-5新共同訳)

 「丸太」も「おが屑」も、共に " sin " だ。
 " sin " は、どの人にもある。
 自分自身の "sin " に気付くかどうか、ここが別れ目だ。イエスが仰っていることも、このことだ。
 しかし、上にも書いたが、 " guilty " について教えてくれる人は多いが、 " sin " を教えてくれる人など、いない。
 きわめて個人的な問題だから。
 このことについては、「そのためにこそ聖書がある」としか、言いようがない。

 " sin " に気付き、イエスに手当てしてもらって(比喩ではない)「うしろめたさ」(?? うまく言葉にできない)を拭い去っていただく。
 「罪からの解放」だ。

 今日の聖書箇所での法廷の場面で、イエスは、" not guilty " なのに "guilty " だと訴えた祭司長、「十字架につけろ」と叫び続けた群衆たちに「丸太」を打ち込んだのではなかろうか

 最後に、「罪」、この日本語(というか、訳語)が厄介だ。
 何故 " sin " を " guilty " と同じ「罪」としたのか。
 イエスの仰る「丸太」、「おが屑」は、「罪悪感」の「罪」とは、まるで関係がない。
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