礼拝

 「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:20-21)

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 最初の患難がヨブを襲ったときの、彼の言。
 ちなみに「上着を引き裂き」というのは、サブカルでポッポに言い砕くと、「なんてこった!」というときにやる古代ユダヤ人の仕草。
(やな言葉を使ってしまった。)
 この仕草は、どの人も共通だ。
 ここからが、ヨブは違った。

 「頭をそり、地にひれ伏して礼拝」した。
 礼拝。
 地にひれ伏して。
 しかも頭までそって。
 誰が見ているわけでもないのに。

 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24新共同訳)とイエスは仰った。
 このヨハネ福音書の文脈をさかのぼると、礼拝する場所はエルサレムでもないし「この山」でもない、今こそ「霊と真理をもって礼拝」するときだ、と仰ったのち、続けて上のように仰った。

 霊としての神を霊としての人が真理のうちにあがめる、礼拝とはこういうものなのだろう。
 そしてヨブは、そのような礼拝をした最初の人ではなかろうか。
 場所がどこかは、問われない。
 どういう行為をし、何を言い何を聴くのかも、本質的に全く問われない。
 私もいつしか、そのような真の礼拝を持ちたいものだ。
 いくばくか、そのチャンスが多いかも知れない。
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