義への飢え乾き

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

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 ここでいう「義」とは、文脈上、神の義の意。
 誤解を恐れず言い換えれば、神に認められるということ。

 さらに誤解を恐れずにいうと、神がお造りになった私たちは、その神から認められていない。
 アダムの違反のためだ。
 アダムの子孫でありアダムの肉を持つ私たちは、神の聖なる律法を遵守することができない。それも全くできない。そのことは、山上の説教の中でイエスがこれから明らかにしてゆく。
 律法に照らして、アダムの子孫である私たちは罪深い存在であり、神の義には到達できない。
 義を求めてどれだけ熱心に行っても神の水準にははるかに届かず、ここに至って自身の罪深さ、義への飢え乾きはピークに達する。

 しかし、その到達できない神の義、これを求めてやまない人こそ幸いだと、ここでイエスは言っている。
 なぜなら、「その人は満ち足りる」のだ。神から認めていただけるのである。
 そして、そのルートを開通させるべくイエスは世に来て、イエスのわざを完了させた。
 すなわち、十字架と復活である。

 このイエスを信じさせられたとき、私たちは義と認められ、まさに満ち足りる。
 律法を遵守できないことには変わりないが、義とみなされて満ち足りるのである。

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[一版]2013年10月27日
[二版]2018年 1月14日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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