新しいエルサレム

 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:1-4)

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 上の聖書箇所は、筆者ヨハネが見たままをそのまま記したもの、言い換えると黙示形式ではない箇所だろうと確信している。

 私たちは新しいエルサレムで神の民とされる。
 すべては過ぎ去った。
 そのとき神は、今まで流し続けてきたぬぐいきれない程の涙を、すっかりぬぐい取ってくださる。
 悲しみも叫びも、苦しみも怒りも、そして死も、ここに至ってすべては過ぎ去った。

 では何故神は、あのアダムの違反をすぐにも快復なさらなかったのだろう。
 それはおそらく、悪が悪と明らかにされてさばきを受けるためなのではないだろうか。

 ここにあるのは、神と人との関係が完全に修復された形なのである。

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[付記]
 初版 2008年11月 5日。
 二版 2010年 3月21日。

 今回少々筆を加えました。

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