和解

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:19-20)

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 キリストは、愛する者を格別にお取り扱いになり、そして、その人の戸を叩く。
 キリストが叩いたのだと分かる者、キリストの声をそうと聞き分ける者は、その戸を開けてキリストを迎える。
 そこでキリストと共に囲む食卓は、神との和解の場だ。
 なぜ神との和解に至るのかというと、その人がキリストをキリストと、救世主を救世主と分かったからである。
 そうと分かるのは、ただ神の御恵みによる。

 「わたしは、戸の外に立ってたたく」。
 こちらから出掛けていってキリストを見つけるのではない。
 キリストがやってきて戸を叩く、それを待ち続ける。
 このように、神のわざは、どこまでも人間の側が受け身になる。
 懲らしめも、神がお与えになる。
 その懲らしめのない人は神から見放されている、ということをヒルティが書いているが、そのことは私もそう思う。

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[付記]
 本日の記事は、2008年11月3日付記事に筆を入れたものです。

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