『勝利』ということ

 「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示2:10-11)

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 苦しみというものは、避けて通ることができない。
 「好事魔多し」という言葉だってある。
 そういうものに対して、どこまでもキリストに忠実であることが求められている。
 キリストも、十字架の苦難を受け容れ忍耐された。
 私たちを牢に投げ入れようとする人々に対する忍耐が、そのキリストにより試されている。
 そのようにして忍耐し通すことが、「勝利」である。
 格闘技で相手を倒すこととか、勢力が拡大することというのは、「勝利」でもなんでもない。

 そして、「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」という確約がある。
 この肉の身は、必ず一度死ぬ。
 避けて通れないこの死も恐いものだが、はるかに恐ろしいのは、ここでいう第二の死である。
 「勝利」とは、この第二の死を免れて永遠のいのちに生きることを指す。
 それは、自分たちを牢に投げ入れようとする人々に対する、最終的な勝利であるかも知れない。

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[付記]
 本日の記事は、2008年11月2日付記事に筆を入れたものです。

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