丸太

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:3-5新共同訳)

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 自分の目の丸太には、おいそれと気付かない。
 だが、イエスを通した律法が、その「丸太」に気付かせてくれる。
 「イエスを通した律法」とは、厳密解釈であるのみならず、心の中まで突き通す力がある。
 このイエスの律法によってのみ、丸太を丸太と気付かせてくれる。
 丸太とは、もちろん自身の罪( sin )のことだ。
 イエスの律法によって、罪が罪としてあからさまになる。

 「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」。
 イエスは私たちを偽善者呼ばわりする。
 イエスの基準からすれば、私たちにはひとかけらの善すら行うことはできない。
 かけらほどの義もなく、生まれながらの罪人にすぎない。
 それにもかかわらず善人面(づら)して、他人のおが屑探しばかりやっている。
 自分の丸太が見えない偽善者なのである。
 だから、「まず自分の目から丸太を取り除け」と、イエスは仰っている。
 それが救いの入り口なのであり、そのためにイエスの律法がある。


 なお、上の聖書箇所は過去に何度も用いた。
 こちらこちら、それからこちら
 書いてきたことはいずれも同じで、今回もそうだ。

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[付記]
 本日の記事は、2008年7月17日付記事を加筆したものです。

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