偽善者

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)

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 偽善というと、ここ最近ではアグネス・チャンを思い起こす。
 あれの偽善ぶりといったら、たいしたものだ。
 ただ、その気持ちは理解できる。
 絶対的弱者の上に立つ形になるので、頼られて自分の存在感を発揮できて、あれはとても気持ちがいい。「いい人」にもなれる。
 だが、弱者を真に思っているわけではなく、弱者を愛しているわけでもない。
 自分のみのためで、偽善たるゆえんだ。
 アフリカの人々は、ついに完全に援助漬けに陥ってしまった(あれは一体どうするのだろうか)。
 ボランティアは援助ビジネスへとたやすく堕してしまう。

 「父の報い」は恵みによるので、人目に付くところで施したか、隠れたところで施したかとは異なる話だ。
 だが、施しとか善行というのは、自分の気持ちにすら隠れたところでやらなければ、たやすく偽善に陥ってしまう。程度の差はあれ、誰もが偽善者なのだ。
 だが、その偽善者の上にも恵みは降り注ぐ。
 そのとき彼は自分の内に偽善を認め、赦しの十字架の前にひざまづくのである。

 完全に行うことのできる人などいない。行いで父から報いを受ける人など、いないのである。

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