こっぱみじん

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。
 山上の説教とは、イエスを通した徹底した律法解釈が主であった。

 さて、イエスが仰るように、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行」ってみよう。
 この徹底した律法解釈を、どこまで行うことができるか。
 だが、肉を持つ人にはそれができない。全くできない。
 山上の説教を守り行おうとして、自分はそれを守れていると思っている人は、実際には守れてなどはいないから(そのことに気付いてすらいないだろう)、「砂の上」の家のようである。

 一方、山上の説教をどこまでも試みて、そうしてどうしても出来ない、という地点にまで追いつめられたとき、その人は暴風雨と洪水の前に倒れる。
 それも、こっぱみじんにひどく倒れる。
 だが、そのこっぱみじんのときに復活のイエスと出会って、「いのち」を得る。
 この「いのち」こそ、岩の上に立てられた家なのだ。

 大切なことは、どんな家を建てるかということではない。
 イエスを通した律法によって、こっぱみじんに倒されることなのである。

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[付記]
 本日の記事の履歴は、以下の通りです。
 [1版] 2008年 2月12日
 [2版] 2008年 7月28日
 [3版] (本日:大幅に修正)

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