救いに伴うことがら

 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:18-19)

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 これから罵声を浴び、むち打たれ、そして十字架に架かるイエス。
 それ以前からも、イエスは幾度石を投げられて殺されそうになったことか。
 人としてのイエスの人生は、多くの人から憎まれ続けた人生だったといえる。
 それは「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。」(ヨハネ3:19)とあるように、光と世との対立構造に由来する。
 光は世に、救いの手を差し伸べた。
 イエスが人間の肉をまとって来られたというのが、その救いの手である。
 しかし、世は「光よりもやみを愛」する、もっと言えば、闇を愛し光を憎む性質を持っている。

 もしも、その世に属するのであれば、その人は世からは愛されるだろう。
 だが、イエスの選びによって、その世から選び出されて光の側に連れてこられる人がいる。
 すなわち、恩人イエスによって闇から救われた人のことだ。
(なお、「救い」は死後のことではない。そうだとしたら、イエスは自らの朽ちた死体を十字架につけたことだろう。)
 闇を愛し光を憎む特性は、当然にその人を憎む。
 だが、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。」とイエスは仰るのである。

 神の子イエスがとうに体験していることと同じ道を歩む、救い出された人はこのことを覚悟する必要がある。
 そしてそのこともまた、救われた喜びを大きくするのである。

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