イエスにつながって結ぶ実

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 ……
 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:1,4-5)

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 ヨハネ14:20に「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」と、イエスと私たちとの相互性を悟ることについて記されているが、上の聖書箇所も、その相互性に基づいたものである。
 その相互性とは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」という師弟関係の上での相互承認関係であるが、いずれにせよ、「その日に」わかったことが前提になっている。

 さて先日、「実=いのち」仮説をやってみたのだが、15章を読み進めるほどに、この仮説は無理が広がってゆく。
(「多くの実」について、複数の英語辞書では "much fluit " とある。「いのち」はたくさんあるものではない。)
 ともかく、イエスという木につながった私たちが結んだ「実」は、農夫である御父が収穫なさるものである。
 イエスを離れてしまっては、私たちは御父が収穫なさるような何かを、全く結ぶことができない。
 このように私たちは、イエスを仲介して御父と密接に関係しているのである。
(このことが、「いのち」の回復である。)

 御父が喜んで収穫なさる「実」とは、何だろう。
 イエスにとどまって初めて結ぶ「実」。
 その「実」は、イエスとの相互関係にあることによる副産物に違いない。
 「実」とは、律法の行いではない。そんなことは肉にはできない。
 善行かも知れないが、では何を基準に善を善とするのであろうか。
 人格的成熟というのは、イエスのメッセージとは関係がない。
 個人的にはいまのところ、イエスと共にいること自体が「多くの実」なのではないかという気がしている。

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