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北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

やっぱり地デジはきれい

2008-07-21 23:37:48 | Weblog
 連休を札幌で過ごし、今日の昼の飛行機で東京に戻ってきました。

 連休中の札幌は最高気温が27℃ほどで、本当に涼しく過ごせました。東京も30℃を少し超えたくらいであまり変わらないような気もしますが、湿度が高いため体感温度は雲泥の差。

 涼しいだけでこんなに幸せか、と思う三日間でした。

    ※    ※    ※    ※

 昨日やってきたプラズマテレビは、アナログ放送も写りますがもちろん地上波デジタルも写り、その差が分かります。

 買うまでは、「地デジと言っても、番組の内容に変わりがあるわけじゃないし、きれいかきれいじゃないかの差にお金を払うなんて馬鹿らしいなあ」と正直そう思っていましたが、アナログ放送とデジタル放送を見比べてみるとその差に圧倒されました。

「あ、こんなに違うものか…!(絶句)」

 しかし、きれいなのはよいとして、地デジは新しい技術であるために、これまで使っていた放送施設が使えず、地デジの写るエリアを順番に拡大しているところですが、まだまだ山奥などは施設の設置が間に合っていないのも事実。

「きれいなのは分かるけど、うちはまだ写らなくて…」という恨み節も聞こえてきそうです。人口カバー率を上げようとするとどうしても大都市から先に整備も進むことになり、ここでもやはり過疎地は後回し。なんとかならないものでしょうか。

    ※    ※    ※    ※

 さて、プラズマテレビはきれいなのはよいのですが、使い始めの初期に同じ模様をずっとうつしっぱなしにしていると画面が焼き付けを起こすという欠点があります。

 テレビゲームなどをやりすぎて、持っているアイテムのインジケーターを同じところにうつしっぱなしにしていると、その文字が画面に焼き付いてしまうのです。

 かつてはパソコンのブラウン管モニターも同じ現象になり、これを防ぐためにスクリーンセーバーという、一定時間使わなければ画面が切り替わる工夫がされていました。

 しかしテレビではそうもいきません。最初のうち蓮古式をつけて画面を切り替えなくてはならないようです。なんだか面倒くさいけど仕方ありませんね。
 一応この週末の帰省目的は達しました。

    ※    ※    ※    ※

 そうやって家のテレビを最新型にして、また単身先に戻るとそこにあるのは14インチのブラウン管テレビ。

 はー、まあ何をやっているかを知るだけならこれでも充分なんですけどね。 

  
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さよならカセットテープ

2008-07-20 23:24:56 | Weblog
 今日は新しいテレビがやってくる日。テレビ周りを少しきれいにしておこうと、テレビ台の中を整理しました。

 すると、この言えに引っ越してきたときに入れたまんまの小物類がたくさん出てきてびっくり。「一年使わなければ捨てても良い」とはよく言われますが、そもそもあったこと自体忘れていたようなものがたくさんあるのでは、収納スペースというものも善し悪しですね。

 そんな小物の中に、むかし一生懸命勉強した英会話のカセットテープがありました。さすがにもう聞くこともない、と思い、全部捨てることに。

 おそらくこれを「もったいない」と思ったら、家中この手の思い出の品々が残ってしまい事でしょう。

 昨日と同じ今日で良いのであれば余計な苦労もいらないけれど、黙っていると陳腐化してしまうものもあるのです。

 さすがにカセットテープじゃもう思い出の品にもならないようです。

  
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我が家にWiiが、キターーーー!

2008-07-19 23:27:48 | Weblog
 暑い日が続きます。窓を開けて寝ていても、朝の4時か5時くらいに一度目がさめてしまいます。いよいよ夏ですね。

 そんな暑い日が続く中、この週末私は北海道へ脱出です。早めに着いた羽田空港は夏休みの子供たちがたくさん楽しそうにしていました。燃料が高い分、より濃密な旅にしてほしいものですね。

  *    *    *    *    *

 さて、今回の帰省での課題はテレビの購入です。長く使っていた家のテレビもどうやら寿命が来たようで、チャンネルによって画面に異常な波線が現れる不具合が出てきたのです。そこでついに買い換えを決意したのがこの週末というわけ。
 札幌駅へ着くと同時に家族と駅周辺の電気屋さんで待ち合わせをしてテレビコーナーを練り歩きました。

 さすがにもう薄型のテレビしか売っていませんが、液晶かプラズマかという選択肢の中から今回は「清水ダイブ」でプラズマテレビにしてみました。細かい表現力が選択のポイントです。

 家への到着は明日。オリンピックに間に合いました。

  *    *    *    *    *

 大きな買い物をしたのでポイントがたまって気持ちが大きくなっていました。他の売り場を散策するうちに、Wiiが目につき、子供たちに「買わないの?」とねだられてついポイントで買ってしまいました。

 WiiFitも併せて買ったので、遊びながらの健康管理ができるでしょうか。

 それにしても札幌は涼しい。これが一番の健康への道かもね。
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時代を変えた男、野茂英雄

2008-07-18 23:45:13 | Weblog
 大リーグでも活躍した野茂英雄投手が引退を表明したのだそう。

 トルネード(竜巻)とあだ名された独特のフォームから繰り出されるストレートとフォークで三振の山を築いたあの投球ももう見られないかと思うと寂しい限り。

 野茂が偉大なのは、日本のプロ野球界にとどまらずに自分自身の活躍の全盛期に大リーグを目指し、そこで大活躍をしたこと。彼のお陰があればこそ、日本プロ野球界のレベルの高さをメジャーの各球団に印象づけることが出来たのです。

 そしてそのことが、後のイチローや松井、松坂などに見られるように、メジャーリーグが日本の選手を受け入れる素地を作り上げました。まさに日本のプロ野球を大きく変えるエポックを作り上げたのが野茂英雄なのです。

 日米通算201勝155敗、メジャーでは両リーグでノーヒット・ノーランを達成した偉大な投手です。長い間ご苦労様でした。

    ※    ※    ※    ※

 そういう野茂を受け入れたのが、またアメリカという国の懐の広さでしょう。国籍がどこであろうと、活躍する人を正当に評価して受け入れる。そういう国柄こそが、世界中からの優秀な能力を惹きつける魅力なのです。

 そういう魅力があればこそ、どこの国の人であろうが試合というプラットフォームが形作られているのはアメリカであり、アメリカが繁栄するという構図が作られています。

 「ウィンブルドン現象」という言葉が経済の分野で語られます。ウィンブルドンはイギリスの伝統的なテニス大会なのですが世界中から強豪が集まってくるためにイギリスの選手が勝ち上がることができなくなりました。

 そのため、「自由主義貿易のために自国が利益を得られないこと」という意味で「ウィンブルドン現象」という単語が使われています。

 しかし逆に言うと、自国の選手が活躍できなくてもウィンブルドンといえばイギリスでなくてはならないわけで、世界中からプレイヤーを招き入れる魅力がそこにあるということですね。

 もはやグローバルな経済ということは、そうした考え方を受け入れて、世界のプラットフォームになる競争に飛び込まなければ勝てないということを常識とすることなのではないでしょうか。

    ※    ※    ※    ※

 日本を代表する文学賞である芥川賞は今年、「時が滲(にじ)む朝」を著した中国人の楊逸(ヤンイー)さんが受賞しました。

 ある友人は「日本の文学賞が外国人に賞を与えていいのかなあ」と憤っていましたが、私のグローバル世界論と意見を交わすうちに「そうか、そういうことなんだな」と理解を示してくれました。
 
 良いものを素直に良いと認める社会こそが、これからの日本の進む道。そうして世界に飛び込み、世界を受け入れるしかこの国が生きて行く道はありません。
 
 大分県での教員採用にまつわる贈収賄事件を見るにつけても、狭い世界がうまく行っていれば良い、とするローカルルールという名の既得権に対する社会の拒否感の現れと見えます。

 グローバル化する社会の変化の方向を、そういう文脈で読み取れば、ローカルルールを存続させることはもはや難しくなっているのだ、と思わざるを得ないでしょう。

 誰が憎いのでもなく、どの個人を批判しようというのでもなく、変化している社会に対して、その先を行く(作り上げる)か、その変化について行くか、その変化に取り残されるか、という選択肢しかないのだと思います。


 野茂さん、ご苦労様でした。そしてありがとう。  
 
 
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教育ってなんでしょ?

2008-07-17 23:45:07 | Weblog
 教育二題。

 山口県の少年がバスジャックをして逮捕されました。事件の前の日に父親と口論になり、家を出て名古屋でナイフを購入すると高速バスに乗り込み事に及んだとのこと。

 父親と女友達との交際を巡って叱られたことで、「家をめちゃくちゃにしたい」ということが動機だという報道が流れています。

 いかにも若者の短絡的で衝動的な犯罪という印象ですが、どういった背景があるのかが分からないままでは単なる興味本位の憶測だけが飛び交いそうです。

 犯人の少年が通っていた中学校の校長がインタビューされて「心が育っていないということを考えると学校にも責任があったのかと…」と答えていました。

 社会はこういうときに、学校にどこまでの責任があると思うのでしょうか?対マスコミ的に低姿勢になって置いた方が批判が少ないという計算はあるとしても、似たような境遇と環境にありながら多くの子供達は忍耐が効いているはず。

 最後の瞬間の人間の判断に対して、回りはどこまでの責任を感じるべきなのでしょうかね。

    ※    ※    ※    ※

 今日も懇親会があって、自由が丘のイタリア料理店で盛り上がりました。

 今回新しく加わってきた方と親しく話をするうちに、お子さんの勉強の話題になりました。

「いや~、子供の勉強を見ているけど、小学校5年生で塾の問題に解けないものが増えてきて、6年生だとだいぶ解けなくなるんですよ」

「そんなに難しいんですか。そうなると問題を解けるのって特殊能力のようなものですね」
「外国に、5、6歳でバイオリンがめちゃくちゃ上手に弾けたりする子がいるでしょう。幼いときに特別な訓練をすればそのくらいのところまではいく子が出てくるんでしょうけれど、その先にさらに能力を伸ばしたという話をあまり聞きませんよね。僕なんか今の中学受験を受けたとしても合格する気が全くしませんよ。この特殊能力の先にどんな意味があるのかなあ、と思いますね」

 教育って長い目で見た結果なので、ひとそれぞれにいろんな過程をたどって成長してくるはず。

 なんだか考えてしまいますね。 
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タイヤに窒素って…

2008-07-16 23:01:42 | Weblog
 今日も職場の人たちと懇親会。続くときは続くのです。

 話題の中で「私は週末に自転車で都内を巡っているんです」と話をしたところ、その話題を引き取る形で隣にいたAさんが「そういえば最近ガソリンスタンドへ行くと『タイヤに窒素充填します』という看板がかけられていますが、タイヤに窒素を入れるとなにかいいことがあるんですかね?」という話題に。

「あ、あれは良いらしいですよ」という向かいのBさん、しかし根拠がどうも怪しげ。

「何が良いんですか?」
「まずタイヤから空気が抜けにくくなるそうです。そして走行音が静かになるとも言われています」

「え~?その理由が分からないのですが」
「私も分からないんですけど、分子が大きいから抜けないとか…?」やっぱり怪しげな伝聞情報のようですねえ。

 ネットで調べてみると、確かに「タイヤに窒素を入れました」という話題は結構飛び交っているよう。

 しかし「運転者に何も教えずに車を運転させたところ、音が静かになったという人がいた」という報告もあれば、「眉唾もの」と切り捨てる人もいます。

 タイヤ一本に窒素を入れるのにはだいたい500円というのが相場のようですから、4本で2000円。「効いた」という報告も、ガソリンスタンドの回し者かもしれないし、匿名の情報が信じられない典型的な事例のよう。

 真実はどこに?しかしお金をかけて試すのもなんだかあほらしい話題ですしね。

 ところで自転車に入れるサービスってあるんでしょうかね?タイヤが二本だったら試してみようかなあ。誰か教えて。 

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変化を感じ取れ

2008-07-15 23:34:59 | Weblog
 ブログがその日に更新できない日は大抵夜遅くまでの飲み会があったとき。

 夕べは途中の電車で寝入ってしまうのを乗り過ごさないように必至になって、何とか家までたどり着くと夜中の1時10分。ひ~、最終電車でべろべろですわ。

 今夜は札幌から出てきた知人との飲み会で、北海道はどうあるべきかで大いに盛り上がりました。

 東京にいて強く感じるのは、地域がうまくやるための見えないローカルルールは認めないという意思のような気がします。

 グローバル社会へ飛び込むための前提として、公平な社会を追究しなくてはならない。そのためには、不公平がまかりとおるローカルの事情も認めない、という意識を感じるのですが、どうでしょう。

 北海道開発局での入札妨害などでの逮捕者が続出したことや公正取引委員会による談合疑惑への調査などは、そうした意思に現れのように思います。

 これまでは地域それぞれの事情に対して、暗黙の仕方なさを許容していたのですが、いよいよそれをもう許さない社会を目指すというのが国家の意思として明確になってきたのではないかと。

 社会の変化の方向をどう考えて、それゆえ自らはどう変化すべきかを考えたいものです。なかなか大変なことですがねー。

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ヴィータ・イタリア ~ 東京のイタリア街

2008-07-14 23:45:05 | 東京ウォーク
 今日も東京は外を歩くと熱風が吹き付けます。でもまだ梅雨が明けていないんですね。

 さて、昨日の東京巡りで出会った不思議な空間がこちら、イタリア街(ヴィータ・イタリア)。

  

 こちらは汐留土地区画整理内での開発事業で、汐留シオサイト5区と呼ばれる一角ですが、イタリアのエミリア=ロマーニャ地方にあるレッジョ・エミリアという待ちをモデルにしたイタリアデザインのエリア整備が進められているのです。

 こちらはエリアデザインを統一して、それぞれのビルがデザインコードに従って建築を進めています。しかしこの地区が本当に求めるまちづくりは単なる景観づくりだけではなく、住む人やお店に立ち寄る人たちとの関係をつくるということに理想を持っているとも。

 実際、屋外のカフェで過ごすカップルを見ると、こういう雰囲気は良いなあと思います。

  

 東海道新幹線が東京駅に着く直前に「なんだかイタリアみたいな不思議なデザインのビルがあるなあ」とぼんやりと思ったことがありましたが、それがまさにイタリア街のビルでした。

 昨日は暑かったためあまり人が歩いていませんでしたが、もう少し人がいるともっとイタリアっぽかったですね。

    ※    ※    ※    ※

 デザインコードを統一しているので、コンビニもフランチャイズ独自の看板を出すことは出来ません。ファミリー●ートも壁にマークが貼ってあるだけです。デザイン統一を一つの考えでやるとこういう風景が作れるという見本の一つですね。

  

 今度は食事でもしてみようかな。
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波除神社と佃天台地蔵さま

2008-07-13 23:33:43 | Weblog

 まだ梅雨明けにはならないものの全国的に暑い一日となりました。東京も今日の最高気温は32℃とか。ふう。

 そんな中ですが、久しぶりに自転車による東京巡りを敢行。今まで行きそびれていたところの落ち穂拾いのような旅です。

 まずは芝離宮恩賜庭園へ。浜松町からモノレールに乗って羽田空港へ向かうときに進行方向左側に見えるかつての大名庭園ですが、まだ行ったことがなかったのです。

 ここ芝離宮庭園は、かつては海だったものを明暦年間(1655~1658)に埋め立てられ、延宝6(1678)年に老中で小田原藩主だった大久保忠朝の邸地となったのだそう。

 忠朝は上屋敷を立てる際に藩地小田原から庭師を呼び寄せて作庭し、これを「楽寿園」と命名したのだとか。やがていくつかの大名の屋敷替えを経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となりましたが、維新後に有栖川宮家のものとなりさらに明治8年に宮内庁が買い上げて芝離宮となったもの。

 大正12年の関東大震災によって建物と樹木のほとんどを消失したものの、翌大正13年1月に昭和天皇ご成婚記念として東京市(当時)に下賜され、同年4月からは一般公開が始まりました。現在は東京都の公園として管理がなされています。

 大震災で焼けたとは言え、今でも立派な樹木がよく手入れされていて、都会の中のオアシスといった感じ。庭の奥の大きな樹木越しに都内の超高層ビルやモノレールなどを見ると、伝統と現代が同時に見られてまさに『モダン東京』の代表的な景観といえるかも知れません。

   

    ※    ※    ※    ※

 続いては築地場外市場へと向かい、こちらで波除稲荷神社へお参り。

 江戸開府の頃は築地のこのあたりはもちろん、日比谷のお堀のあたりまでがまだ海でした。江戸開府に伴ってお堀の揚げ土で日比谷の入り江から埋め立てを始めた江戸湾は少しずつその面積を広げ、明暦大火の後に四代将軍綱吉公が手がけた最後の埋め立てがこの築地だったのです。

 しかし工事は堤防をいくら築けども激しい波が土をさらい、困難を極めました。そんなある日、海面を光り輝いて漂うものがあり、船を出して拾い上げてみるとそれは立派な稲荷の大神のご神体。

 人々は皆畏れて早速現在の地に社殿を建てお祀りをしたところ、それからは波風がおさまり埋め立てが萬治2(1659)年に無事に完成できたとのこと。
そしてそれ以来、人々はその「災難を除き、波を乗りきる」という御神徳を讃え、『波除稲荷神社』として地元の崇敬を集めているというわけです。

 人生の困難な大波を感じたときにはここへお参りに来ると良さそうです。

  

    ※    ※    ※    ※

 最後は佃島の佃天台子育て地蔵。

 かつての埋め立て島である佃島の面影を今に残す佃地区ですが、ここにある佃天台子育て地蔵さんは、密集地帯で家と家の間の幅50センチほどの通路を30mほど入ったところに忽然と現れるお地蔵さんです。

  

  

  

 こんなところにお地蔵さんを祀るとはいかにも珍奇な風景です。

 

 そして道路を広場として使っているかなり古い形とその上手さが、この佃島には残っています。

 この祭り広場なんて、道路の広場使いとしては東京でも指折りの秀逸さ。地域にとっては当たり前なのでしょうが、道路交通法が幅を利かせている車社会の後に作られた道路ではこうはいきません。

 こういう形はずっと残してほしいものです。



 江戸はまだまだ奥深い。 

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【番外編】道路をみんなでシェアする

2008-07-12 23:58:16 | Weblog
 さて、「時空間をシェアする」の続きです。

 午前の問題提起を終えて、午後は三つの分科会に別れて問題意識をさらに高めようと言う企画。

 私は「空間のシェアによる都市地域の再構築」というテーマを掲げた第一分科会に参加しました。こちらは4人のパネリストを迎えて道路や交通、都市空間などのシェアについて意見を交わすもので、なかなか楽しい時間でした。

  

 いろいろなお話を聞いた中でも大変面白かったのは、慶応大学の非常勤講師をしているエルファディンク・ズザンネさんの発表した、2003年にオランダのドラフテン村で初めて行われたという「シェアド・スペース」でした。

 これはオランダ人のHans Monderman(ハンス・モンダーマン)氏によって考案されたものですが、なんと道路から標識や路面表示を撤去して道路を車の運転者と歩行者、自転車利用者などとみんなでシェアしようと言うものなのです。

  

  

 その根本的な考え方は以下の三つを前提としているといいます。
①交通事故の大多数が住宅から15キロ以内に発生し、その主な原因は高速で移動することに起因するコミュニケーション不足である。

②歩車分離は専用空間の意識形成を促進し、結果として「いるはずがない」歩行者と車両の出会いが交通事故に繋がっている。

③人は人と目を合わせて合意を得ることが必要な、不安な空間では動きが遅くなるため、コミュニケーションが必要とされる場では安全性はむしろ高くなる。

 それにしても、「不安な空間では動きが遅くなる」ことから帰って安全になる、というのは経験上は理解できますが、本当にこれをやるとなると実際に事故が起きたときのことを考えると、行政としては二の足を踏みそうです。

 モンダーマン氏の言うには「右側通行」(オランダは車は右側通行のため)、「右の道路から来た車両が優先」、「お互いの思いやり」の三つだけが交通ルールなのだとか。

 そして実際にこれを始めたドラフテン村でも、始めは交通事故が増えることが懸念されたが、実際は景観が良くなり、交通渋滞もなくなり、交通が減速し、自動車と自転車と歩行者とがゆとりを取り戻した道路空間を自由に使っていると言います。

 また2005年までに107箇所の交差点が改良されて、この間重傷者や死亡者の出る事故は発生していないのだそうです。

 信号がなくて、いつ誰が飛び出してくるかも知れないという空間を走るというのではドライバーは緊張を強いられます。横断をしようとする歩行者がいればルールがないのならお互いに目を見合って「どうぞ」「ありがとう」というアイコンタクトによる一瞬のコミュニケーションこそがルールになりそう。

 「あくまでも人間を信用する」という、なんだか心が温まるルールですね。 

 EUではこの後にいくつかの地域でこの「シェアド・スペース」のモデルプロジェクトが行われているそうです。

    ※    ※    ※    ※

 会場からは「シェアド・スペースは小さな村の話なのでは?」という質問が出ましたが、ズザンネさんの答えは「ドイツで二番目に大きな都市の、人口200万人のハンブルク市でもやる気になっています。交通ではなく、人が使うまちを考えればやれるということです」

 もちろんこれを可能にする前提は、政治家、行政、専門家、様々な団体と一般住民が同等なパートナーになり、皆が責任を担うことが重要だ、ということ。

  

 日本の法制度や好物管理者に対して厳しい慣習の下で果たして実現が出来るかどうかは難しそうですが、部分的にでも社会実験からでも始めてみたいものです。

 会場のパネリストの一人が相田みつをさんの詩を映し出しました。

  

 「うばい合えば足らぬ。わけ合えばあまる。うばい合えば憎しみ、わけ合えば安らぎ」

 ほんと、そうだよなあ 
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