さて、「時空間をシェアする」の続きです。
午前の問題提起を終えて、午後は三つの分科会に別れて問題意識をさらに高めようと言う企画。
私は「空間のシェアによる都市地域の再構築」というテーマを掲げた第一分科会に参加しました。こちらは4人のパネリストを迎えて道路や交通、都市空間などのシェアについて意見を交わすもので、なかなか楽しい時間でした。

いろいろなお話を聞いた中でも大変面白かったのは、慶応大学の非常勤講師をしているエルファディンク・ズザンネさんの発表した、2003年にオランダのドラフテン村で初めて行われたという「シェアド・スペース」でした。
これはオランダ人のHans Monderman(ハンス・モンダーマン)氏によって考案されたものですが、なんと道路から標識や路面表示を撤去して道路を車の運転者と歩行者、自転車利用者などとみんなでシェアしようと言うものなのです。


その根本的な考え方は以下の三つを前提としているといいます。
①交通事故の大多数が住宅から15キロ以内に発生し、その主な原因は高速で移動することに起因するコミュニケーション不足である。
②歩車分離は専用空間の意識形成を促進し、結果として「いるはずがない」歩行者と車両の出会いが交通事故に繋がっている。
③人は人と目を合わせて合意を得ることが必要な、不安な空間では動きが遅くなるため、コミュニケーションが必要とされる場では安全性はむしろ高くなる。
それにしても、「不安な空間では動きが遅くなる」ことから帰って安全になる、というのは経験上は理解できますが、本当にこれをやるとなると実際に事故が起きたときのことを考えると、行政としては二の足を踏みそうです。
モンダーマン氏の言うには「右側通行」(オランダは車は右側通行のため)、「右の道路から来た車両が優先」、「お互いの思いやり」の三つだけが交通ルールなのだとか。
そして実際にこれを始めたドラフテン村でも、始めは交通事故が増えることが懸念されたが、実際は景観が良くなり、交通渋滞もなくなり、交通が減速し、自動車と自転車と歩行者とがゆとりを取り戻した道路空間を自由に使っていると言います。
また2005年までに107箇所の交差点が改良されて、この間重傷者や死亡者の出る事故は発生していないのだそうです。
信号がなくて、いつ誰が飛び出してくるかも知れないという空間を走るというのではドライバーは緊張を強いられます。横断をしようとする歩行者がいればルールがないのならお互いに目を見合って「どうぞ」「ありがとう」というアイコンタクトによる一瞬のコミュニケーションこそがルールになりそう。
「あくまでも人間を信用する」という、なんだか心が温まるルールですね。
EUではこの後にいくつかの地域でこの「シェアド・スペース」のモデルプロジェクトが行われているそうです。
※ ※ ※ ※
会場からは「シェアド・スペースは小さな村の話なのでは?」という質問が出ましたが、ズザンネさんの答えは「ドイツで二番目に大きな都市の、人口200万人のハンブルク市でもやる気になっています。交通ではなく、人が使うまちを考えればやれるということです」
もちろんこれを可能にする前提は、政治家、行政、専門家、様々な団体と一般住民が同等なパートナーになり、皆が責任を担うことが重要だ、ということ。

日本の法制度や好物管理者に対して厳しい慣習の下で果たして実現が出来るかどうかは難しそうですが、部分的にでも社会実験からでも始めてみたいものです。
会場のパネリストの一人が相田みつをさんの詩を映し出しました。

「うばい合えば足らぬ。わけ合えばあまる。うばい合えば憎しみ、わけ合えば安らぎ」
ほんと、そうだよなあ
午前の問題提起を終えて、午後は三つの分科会に別れて問題意識をさらに高めようと言う企画。
私は「空間のシェアによる都市地域の再構築」というテーマを掲げた第一分科会に参加しました。こちらは4人のパネリストを迎えて道路や交通、都市空間などのシェアについて意見を交わすもので、なかなか楽しい時間でした。

いろいろなお話を聞いた中でも大変面白かったのは、慶応大学の非常勤講師をしているエルファディンク・ズザンネさんの発表した、2003年にオランダのドラフテン村で初めて行われたという「シェアド・スペース」でした。
これはオランダ人のHans Monderman(ハンス・モンダーマン)氏によって考案されたものですが、なんと道路から標識や路面表示を撤去して道路を車の運転者と歩行者、自転車利用者などとみんなでシェアしようと言うものなのです。


その根本的な考え方は以下の三つを前提としているといいます。
①交通事故の大多数が住宅から15キロ以内に発生し、その主な原因は高速で移動することに起因するコミュニケーション不足である。
②歩車分離は専用空間の意識形成を促進し、結果として「いるはずがない」歩行者と車両の出会いが交通事故に繋がっている。
③人は人と目を合わせて合意を得ることが必要な、不安な空間では動きが遅くなるため、コミュニケーションが必要とされる場では安全性はむしろ高くなる。
それにしても、「不安な空間では動きが遅くなる」ことから帰って安全になる、というのは経験上は理解できますが、本当にこれをやるとなると実際に事故が起きたときのことを考えると、行政としては二の足を踏みそうです。
モンダーマン氏の言うには「右側通行」(オランダは車は右側通行のため)、「右の道路から来た車両が優先」、「お互いの思いやり」の三つだけが交通ルールなのだとか。
そして実際にこれを始めたドラフテン村でも、始めは交通事故が増えることが懸念されたが、実際は景観が良くなり、交通渋滞もなくなり、交通が減速し、自動車と自転車と歩行者とがゆとりを取り戻した道路空間を自由に使っていると言います。
また2005年までに107箇所の交差点が改良されて、この間重傷者や死亡者の出る事故は発生していないのだそうです。
信号がなくて、いつ誰が飛び出してくるかも知れないという空間を走るというのではドライバーは緊張を強いられます。横断をしようとする歩行者がいればルールがないのならお互いに目を見合って「どうぞ」「ありがとう」というアイコンタクトによる一瞬のコミュニケーションこそがルールになりそう。
「あくまでも人間を信用する」という、なんだか心が温まるルールですね。
EUではこの後にいくつかの地域でこの「シェアド・スペース」のモデルプロジェクトが行われているそうです。
※ ※ ※ ※
会場からは「シェアド・スペースは小さな村の話なのでは?」という質問が出ましたが、ズザンネさんの答えは「ドイツで二番目に大きな都市の、人口200万人のハンブルク市でもやる気になっています。交通ではなく、人が使うまちを考えればやれるということです」
もちろんこれを可能にする前提は、政治家、行政、専門家、様々な団体と一般住民が同等なパートナーになり、皆が責任を担うことが重要だ、ということ。

日本の法制度や好物管理者に対して厳しい慣習の下で果たして実現が出来るかどうかは難しそうですが、部分的にでも社会実験からでも始めてみたいものです。
会場のパネリストの一人が相田みつをさんの詩を映し出しました。

「うばい合えば足らぬ。わけ合えばあまる。うばい合えば憎しみ、わけ合えば安らぎ」
ほんと、そうだよなあ
