まだ梅雨明けにはならないものの全国的に暑い一日となりました。東京も今日の最高気温は32℃とか。ふう。
そんな中ですが、久しぶりに自転車による東京巡りを敢行。今まで行きそびれていたところの落ち穂拾いのような旅です。
まずは芝離宮恩賜庭園へ。浜松町からモノレールに乗って羽田空港へ向かうときに進行方向左側に見えるかつての大名庭園ですが、まだ行ったことがなかったのです。
ここ芝離宮庭園は、かつては海だったものを明暦年間(1655~1658)に埋め立てられ、延宝6(1678)年に老中で小田原藩主だった大久保忠朝の邸地となったのだそう。
忠朝は上屋敷を立てる際に藩地小田原から庭師を呼び寄せて作庭し、これを「楽寿園」と命名したのだとか。やがていくつかの大名の屋敷替えを経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となりましたが、維新後に有栖川宮家のものとなりさらに明治8年に宮内庁が買い上げて芝離宮となったもの。
大正12年の関東大震災によって建物と樹木のほとんどを消失したものの、翌大正13年1月に昭和天皇ご成婚記念として東京市(当時)に下賜され、同年4月からは一般公開が始まりました。現在は東京都の公園として管理がなされています。
大震災で焼けたとは言え、今でも立派な樹木がよく手入れされていて、都会の中のオアシスといった感じ。庭の奥の大きな樹木越しに都内の超高層ビルやモノレールなどを見ると、伝統と現代が同時に見られてまさに『モダン東京』の代表的な景観といえるかも知れません。
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続いては築地場外市場へと向かい、こちらで波除稲荷神社へお参り。
江戸開府の頃は築地のこのあたりはもちろん、日比谷のお堀のあたりまでがまだ海でした。江戸開府に伴ってお堀の揚げ土で日比谷の入り江から埋め立てを始めた江戸湾は少しずつその面積を広げ、明暦大火の後に四代将軍綱吉公が手がけた最後の埋め立てがこの築地だったのです。
しかし工事は堤防をいくら築けども激しい波が土をさらい、困難を極めました。そんなある日、海面を光り輝いて漂うものがあり、船を出して拾い上げてみるとそれは立派な稲荷の大神のご神体。
人々は皆畏れて早速現在の地に社殿を建てお祀りをしたところ、それからは波風がおさまり埋め立てが萬治2(1659)年に無事に完成できたとのこと。
そしてそれ以来、人々はその「災難を除き、波を乗りきる」という御神徳を讃え、『波除稲荷神社』として地元の崇敬を集めているというわけです。
人生の困難な大波を感じたときにはここへお参りに来ると良さそうです。
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最後は佃島の佃天台子育て地蔵。
かつての埋め立て島である佃島の面影を今に残す佃地区ですが、ここにある佃天台子育て地蔵さんは、密集地帯で家と家の間の幅50センチほどの通路を30mほど入ったところに忽然と現れるお地蔵さんです。
こんなところにお地蔵さんを祀るとはいかにも珍奇な風景です。
そして道路を広場として使っているかなり古い形とその上手さが、この佃島には残っています。
この祭り広場なんて、道路の広場使いとしては東京でも指折りの秀逸さ。地域にとっては当たり前なのでしょうが、道路交通法が幅を利かせている車社会の後に作られた道路ではこうはいきません。
こういう形はずっと残してほしいものです。
江戸はまだまだ奥深い。