ボスポラス海峡とダーダネルス海峡という地名を学校で習ったのはいつのことだったのだろう。確か黒海が地中海に注ぐところだよ、と教えられたものの、地理の時間だったか歴史の時間だったかも、もう忘れてしまっていました。
その名前に再び巡り会うとは、まあ何につながるか分からないけれど勉強はしておけ、ということなのでしょうか。
【「コンスタンティノープルの陥落」を読む】
年明け1月6日のブログで、塩野七生さんの「ローマ人の物語」の最終15巻「ローマの世界の終焉」を読み終えた感想を記しました。
そういえばと思い立って書棚の奥を探してみて見つけたのが、だいぶ前に買って「積ん読」にしていた、塩野さんの歴史小説「コンスタンティノープルの陥落」(新潮文庫)でした。
これがまた読み始めたら止まらず、一気に読めてしまいました。きっと西ローマ帝国の滅亡が心に残っていたからでしょう。
* * * *
西ローマ帝国の滅亡は西暦476年のこととされています。
その最後は、市民を挙げての激戦の末に阿鼻叫喚の声と共に破れた、かつてのカルタゴのようなものではありませんでした。
西暦476年の夏に北部イタリアはラヴェンナで行われた戦闘で、息子を最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスとして帝位につけていたオレステスは政敵オドアケルに破れ殺されます。
しかしオドアケルはその息子の少年皇帝には寛容で、年金を与えて引退させるにとどめます。
この後、オドアケルがどうしたかというと、東ローマ帝国の皇帝に対して自分の立場を認めるように要請したのでした。それも西ローマ帝国の皇帝としてではなく、貴族(パトリキウス)としてです。
東ローマ帝国の権威を認めた上で、その帝国における有力者として認めてほしい、という要請を出したものの、東ローマ帝国の国内事情はそれどころではありませんでした。
そのため、その沙汰もいつしかうやむやになり、以後西ローマ帝国からは皇帝を出すこともないままに消滅をしたのです。歴史の記録にも残らない、西暦476年のある夏の日のできごとでした。
* * * *
これに対して、その一方で歴史の大転換点となるような国の滅亡がありました。それが1453年5月29日の東ローマ(ビザンチン)帝国の滅亡です。こちらの方は、それが滅亡した日までが分かっているという極めて稀な例のです。
帝国の滅亡といっても、15世紀における東ローマ帝国はもはや広大な版図をもちパクス・ロマーナ(ローマによる平和)を達成した帝国ではなく、キリスト教、それもギリシャ正教最大の拠点としての都市コンスタンティノープルだけの帝国なのでした。
著者は登場人物の一人にこう語らせます。
「ビザンチン文明とは、滅んだ古代ギリシャ文明とローマ文明から吸収したすべての要素と、オリエントから受けた影響との総和を、さらに上回るなにものかなのだ。それはそれ自身で一つの完全帯なのであって、単に様々な文明の要素の、色とりどりな混合からできた合成体ではない。東ローマ帝国とは、ある意味で誤った名称だ。なぜなら、330年にコンスタンティヌス大帝がローマ世界の首都を、ローマからビザンチウムに移したとき、彼がそこに創建したものは、さまざまな難問と取り組むやり方と、それが引き起こす反響において、また、建築や法律や文学において、全く独自な一つの精神的な帝国だったからである」
東ローマ帝国最後の皇帝はコンスタンティヌス十一世。
この国に今まさに領土拡大をねらうオスマン・トルコの若き皇帝マホメッド二世が襲いかかろうとしています。
1453年4月12日の朝に、ついに十六万人とも言われるトルコ軍の攻撃が始まります。攻める側は十万人、これに対してコンスタンティノープル内で守る側はわずかに7千人だったのだとか。
そしてこの戦いの様子を著者は、三重のテオドシウスの城壁に守られたコンスタンティノープルの中で守ろうとする人々や、既に都市国家として地中海に君臨していたジェノヴァやヴェネツィアからの援軍、そして攻める側のマホメッド二世の側から、何人もの目を通して生き生きと描き出します。
このときオスマン・トルコ側は、この強力な城壁を破るためにハンガリア人が作ったといわれる大砲を使用します。
この時の大砲は、一発撃つと次に打つまでに3時間を要したのだそうで、次に打つまでに守備側は壊れた城壁を補修出来たと言いますから、悠長なところもありますが、それでも戦争の仕方が、甲冑に身を包んだ中世の騎士が行うようなものではなくなった一つの象徴でもあるのです。
* * * *
やがてついにコンスタンティノープルの最後が訪れます。
圧倒的な軍勢に囲まれての籠城戦で、遠くイタリアからの援軍も期待出来ないままの戦いにしだいに消耗して行く首都の中。
5月29日の未明、ついに三発ののろしを合図に総攻撃が始まります。城壁に綱ばしごを持って殺到する軍勢に、味方に当たろうとお構いなしの大砲の砲弾の嵐。
第一波の攻撃を防いだものの、第二波、第三波の波状攻撃が続き、ついに一つの城壁が突破され、押し寄せるトルコ兵によって塔の上にひるがえっていた帝国旗とヴェネツィア旗が落下し、赤地に白の半月の旗がひるがえったのを見たときに全軍は総崩れ。
皇帝コンスタンティヌス十一世も自ら剣を取り戦いの波に飲み込まれていったのでした。
全軍が総崩れになった今、残された兵士や市民はもはや避難するしかなく、まだわずかに有していた技術ではトルコ軍をはるかに上回る艦隊に乗り込みます。
現在これらの細かな戦いぶりが分かるのも、この時に逃げ帰った多くの将や兵士によって詳細な報告書がヴェネツィアやローマの法王に提出されているからです。
コンスタンティノープルの陥落は、それまでも続いていたキリスト教と回教とのせめぎ合いのなかでもシンボリックな衝撃として西欧を襲います。
同時にその前後にコンスタンティノープルから逃げてきた多くの知識人達によってイタリアルネサンスの古代ギリシア文化の研究も盛んになったと言われます。
コンスタンティノープルは今日、原型が何だったのか分からないくらい変形したイスタンブールという都市名で知られています。
一つの国、文化、歴史の滅亡と、そしてそこから生まれる次なる歴史の綾を感じてみるのも面白いですね。
* * * *
一ヶ月の間に、東西ローマの滅亡に関する本を読むとはこれもまた何かの縁でしょうか。これがなければずっと書架の奥にあるだけだったのかもしれませんからね。
その名前に再び巡り会うとは、まあ何につながるか分からないけれど勉強はしておけ、ということなのでしょうか。
【「コンスタンティノープルの陥落」を読む】
年明け1月6日のブログで、塩野七生さんの「ローマ人の物語」の最終15巻「ローマの世界の終焉」を読み終えた感想を記しました。
そういえばと思い立って書棚の奥を探してみて見つけたのが、だいぶ前に買って「積ん読」にしていた、塩野さんの歴史小説「コンスタンティノープルの陥落」(新潮文庫)でした。
これがまた読み始めたら止まらず、一気に読めてしまいました。きっと西ローマ帝国の滅亡が心に残っていたからでしょう。
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西ローマ帝国の滅亡は西暦476年のこととされています。
その最後は、市民を挙げての激戦の末に阿鼻叫喚の声と共に破れた、かつてのカルタゴのようなものではありませんでした。
西暦476年の夏に北部イタリアはラヴェンナで行われた戦闘で、息子を最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスとして帝位につけていたオレステスは政敵オドアケルに破れ殺されます。
しかしオドアケルはその息子の少年皇帝には寛容で、年金を与えて引退させるにとどめます。
この後、オドアケルがどうしたかというと、東ローマ帝国の皇帝に対して自分の立場を認めるように要請したのでした。それも西ローマ帝国の皇帝としてではなく、貴族(パトリキウス)としてです。
東ローマ帝国の権威を認めた上で、その帝国における有力者として認めてほしい、という要請を出したものの、東ローマ帝国の国内事情はそれどころではありませんでした。
そのため、その沙汰もいつしかうやむやになり、以後西ローマ帝国からは皇帝を出すこともないままに消滅をしたのです。歴史の記録にも残らない、西暦476年のある夏の日のできごとでした。
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これに対して、その一方で歴史の大転換点となるような国の滅亡がありました。それが1453年5月29日の東ローマ(ビザンチン)帝国の滅亡です。こちらの方は、それが滅亡した日までが分かっているという極めて稀な例のです。
帝国の滅亡といっても、15世紀における東ローマ帝国はもはや広大な版図をもちパクス・ロマーナ(ローマによる平和)を達成した帝国ではなく、キリスト教、それもギリシャ正教最大の拠点としての都市コンスタンティノープルだけの帝国なのでした。
著者は登場人物の一人にこう語らせます。
「ビザンチン文明とは、滅んだ古代ギリシャ文明とローマ文明から吸収したすべての要素と、オリエントから受けた影響との総和を、さらに上回るなにものかなのだ。それはそれ自身で一つの完全帯なのであって、単に様々な文明の要素の、色とりどりな混合からできた合成体ではない。東ローマ帝国とは、ある意味で誤った名称だ。なぜなら、330年にコンスタンティヌス大帝がローマ世界の首都を、ローマからビザンチウムに移したとき、彼がそこに創建したものは、さまざまな難問と取り組むやり方と、それが引き起こす反響において、また、建築や法律や文学において、全く独自な一つの精神的な帝国だったからである」
東ローマ帝国最後の皇帝はコンスタンティヌス十一世。
この国に今まさに領土拡大をねらうオスマン・トルコの若き皇帝マホメッド二世が襲いかかろうとしています。
1453年4月12日の朝に、ついに十六万人とも言われるトルコ軍の攻撃が始まります。攻める側は十万人、これに対してコンスタンティノープル内で守る側はわずかに7千人だったのだとか。
そしてこの戦いの様子を著者は、三重のテオドシウスの城壁に守られたコンスタンティノープルの中で守ろうとする人々や、既に都市国家として地中海に君臨していたジェノヴァやヴェネツィアからの援軍、そして攻める側のマホメッド二世の側から、何人もの目を通して生き生きと描き出します。
このときオスマン・トルコ側は、この強力な城壁を破るためにハンガリア人が作ったといわれる大砲を使用します。
この時の大砲は、一発撃つと次に打つまでに3時間を要したのだそうで、次に打つまでに守備側は壊れた城壁を補修出来たと言いますから、悠長なところもありますが、それでも戦争の仕方が、甲冑に身を包んだ中世の騎士が行うようなものではなくなった一つの象徴でもあるのです。
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やがてついにコンスタンティノープルの最後が訪れます。
圧倒的な軍勢に囲まれての籠城戦で、遠くイタリアからの援軍も期待出来ないままの戦いにしだいに消耗して行く首都の中。
5月29日の未明、ついに三発ののろしを合図に総攻撃が始まります。城壁に綱ばしごを持って殺到する軍勢に、味方に当たろうとお構いなしの大砲の砲弾の嵐。
第一波の攻撃を防いだものの、第二波、第三波の波状攻撃が続き、ついに一つの城壁が突破され、押し寄せるトルコ兵によって塔の上にひるがえっていた帝国旗とヴェネツィア旗が落下し、赤地に白の半月の旗がひるがえったのを見たときに全軍は総崩れ。
皇帝コンスタンティヌス十一世も自ら剣を取り戦いの波に飲み込まれていったのでした。
全軍が総崩れになった今、残された兵士や市民はもはや避難するしかなく、まだわずかに有していた技術ではトルコ軍をはるかに上回る艦隊に乗り込みます。
現在これらの細かな戦いぶりが分かるのも、この時に逃げ帰った多くの将や兵士によって詳細な報告書がヴェネツィアやローマの法王に提出されているからです。
コンスタンティノープルの陥落は、それまでも続いていたキリスト教と回教とのせめぎ合いのなかでもシンボリックな衝撃として西欧を襲います。
同時にその前後にコンスタンティノープルから逃げてきた多くの知識人達によってイタリアルネサンスの古代ギリシア文化の研究も盛んになったと言われます。
コンスタンティノープルは今日、原型が何だったのか分からないくらい変形したイスタンブールという都市名で知られています。
一つの国、文化、歴史の滅亡と、そしてそこから生まれる次なる歴史の綾を感じてみるのも面白いですね。
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一ヶ月の間に、東西ローマの滅亡に関する本を読むとはこれもまた何かの縁でしょうか。これがなければずっと書架の奥にあるだけだったのかもしれませんからね。
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