北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

憤の一字

2007-01-11 23:43:58 | 古典から
 毎日が少し冷え込んできました。冬らしくてこれもまたよし。

【憤の一字】
 外国人が北海道でドライブ観光をするために、どのような備えが必要か、という調査をしていたのですが、その関連の会合がありました。

 今回の調査はシンガポールと香港の人たちを対象にしたものでしたが、総じて好評で、いろいろと面白い結果が出ました。

 一時、外国人観光客を迎えるためには道路標識を多言語化しなくてはいけないのではないか、という議論がありましたが、今回調査に参加してくれた皆さんの意見では、「多言語化する必要はなくて、日本語とローマ字があればよい」というものが多かったようです。

 海外経験の多い人に訊くと、外国では主要な施設では自国語とローマ字を同じ大きさで併記している所も多いのだそうで、そういう目で見ると、現在の日本での標識はローマ字部分が小さいと言えるかも知れませんね。

 もっとも看板はそれとして、外国人がドライブをして自由にすると言うことを可能にするためには、カーナビと地図とのセットが大事なのだそうで、レンタカーでのカーナビの情報メンテナンスや、英語の地図の充実が重要になりそうです。

 今回の調査では、代表的なレンタカー会社2社の献身的なご協力があったために全体の運営が大変スムースにいきました。

 各会社でも商売上からも外国人を大事に扱う、という事が当然必要でしょうけれど、こうした会社を超えた連携にも快く応じてくださることで、北海道のドライブ観光を何とかしたいという、強い志が感じられました。
 「我々も民間ですが、国が行うような調査に関われて勉強になりました」

 実にありがたいことです。

    *   *   *   * 

 こうして自分とは異なる世界の人たちとお話をすると、それぞれの世界でものすごく頑張っている人がいることがよく分かります。

 私などはすぐに「すごいなあ」と感心してしまうのですが、その姿にただ感心するばかりではなく、自ら発憤してその姿を自分のものにしたいものです。


 良く紹介する「言志録」には、「憤の一字は、これ進学の機関なり。舜何人や、われ何人やとは、まさにこれ憤なり」という一文がありました。

 発憤するという憤の一字は、学問に進むための道具である。かの顔淵が「舜も自分も同じ人間ではないか」と言ったことは、まさに憤ということなのだ、という意味です。

 村田清風という人が詠んだ歌に

 来て見れば さほどでもなし 富士の山
     釈迦や孔子も かくやありなん  (村田清風)
 
 …というのがあるそうですが、なるほどねえ、これもまたすごい気概です。

 他人と過去は変えられないけれど、自分と未来は変えられるのですな。

 
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