午後から小樽市内でまちづくり講演会があるのに合わせて、娘や孫たちと小樽へ出かけました。
お昼に小樽のすし屋横丁でお寿司を食べた後は、様々なお店が軒を連ねる堺町本通りを散策。
小樽の買い物通りもちょっと見ない間にお店は入れ替わっているし、建物そのものも建て替えられていて、ずいぶんと変わったなあ、という印象です。
ルタオパトスでスイーツとコーヒーで休憩した後は、私は家族と別れて今日のお仕事の講演会を聴くためにホテルへと向かいました。
中国人は少なかったのかもしれませんが、雪まつりのシーズン故か、別な国からの観光客は多いように思いました。
小樽は国際色がずいぶん豊かになっていました。
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さて、今日拝聴する講演会は法政大学社会学部の堀川三郎教授のご講演です。
堀川先生は、学生として1984年に小樽へ来られて、当時話題になっていた小樽運河の埋め立て問題について地元の方からヒアリング調査を行ったことが縁で、それ以来33年間に亘って小樽市のまちづくりについて調査研究を行ってこられました。
そしてそうしてまとめ上げられた学術論文が、なんと都市研究にかかる三つの学会、すなわち「日本都市計画学会石川奨励賞」「日本都市社会学会賞(磯村記念賞)」「「日本都市学会賞」を受賞されたのです。
この授与対象となった学術論文は『町並み保存運動の論理と帰結 - 小樽運河問題の社会学的分析』というもので、ひたすら地元の関係者の声を聴き、背景に横たわる法律や行政手法を紐解いて小樽市議会での議論を逐一分析していくという気の遠くなるような作業の賜物です。
そして今回のこの三賞同時受賞を称えようと、地元の有志が立ち上がり、小樽がこれまで歩んできたまちづくりの道を振り返りつつ、景観保存や小樽らしい観光の姿の模索、そして問題点などについて語り合う場にしようと開催を企画したのが今日の堀川三郎教授の小樽講演会というわけです。
今回の講演会には、(公社)日本都市計画学会北海道支部からも名義後援を出させていただいた関わりもあって、私も参加してきたものです。
ご講演は、小樽をフィールドとして調査研究を行うに至った経緯と調査の苦労、そこから見えてきたもの、そして現代の小樽が抱える問題など広範なテーマを扱っておられましたが、随所に笑いもあり楽しいお話でした。
また今日の聴講者の多くは堀川先生とは何らかの関わりのある方も多く、高名な賞を受賞した堀川先生への祝意も多かったことでしょう。
小樽運河はご承知のように、増え続ける交通量を捌くために小樽市が都市計画で運河を埋め立てて4車線のバイパス道路を建設しようと計画を立てたところ、それに住民が「待った」をかけて、住民と行政による反目そして妥協の歴史という都市計画上のエポックメイキングな事件でした。
それまでの行政は、とにかく一度決めたからには絶対に実行するということがほぼ常識であったのに対して、住民が反対をしたことで「何のための道路か」「それ以前に小樽はどういう町であるべきか」と、語るべき問題がどんどん広がって大きな社会問題になった案件です。
堀川先生は、「本来語られるべきはただの『道路問題』だったのではなく、『誰が社会の代表者か』『再開発はいかにあるべきか』『都市の在り方』など多層にわたるテーマを含んでいたはずなのに、それを道路問題だけで片付けようとしたことで答えが出せなくなった」と考えておられます。
ただ同時に、あの運河問題は「ただの形を残せという懐古趣味だったのではなく、『変化を社会としてコントロールすること』を求めていたのだろう」と抽象化されました。
そう理解することで、他の都市での似たような問題解決に資する一つの道筋に繋がることが期待できますし、学問として後世に生きる者が参考にできる形になったのです。
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ただ堀川先生は、今の小樽に対して「それでいいのでしょうか。『終わりの始まり』が見えているのではないか」と問題意識を投げかけられています。
それは一つには小樽の風景を支えていた歴史的な建築物が年々減少し、またその姿を変え、あるものは全く異質なものに替わってしまっていることをどうしようもなくしている現状に対する警鐘です。
また、これまで培ってきた住民運動を記録し技術として後世に伝えるような形でストックとして残っていないという現実です。
これらの問題を小樽市はどう考えてゆくのでしょうか。
堀川先生の講演が終了して祝賀会が始まるまでの1時間の間に私はすぐ近くの会場で開催されていた「雪明かりの路」を見学してきました。
このイベントもまた、当時の住民運動を率いた人たちの発案から始まったもので、「小樽をどうしたら良いのだろう」という問いへの一つの答えだったはずです。
小樽のまちづくりを考える大変良い機会になりました。
これからも小樽の姿に関心をもって、ときどきはお寿司を食べに定点観測を繰り返してゆくことにします。