明日の夜に私的な会合で『北海道開発と二宮尊徳』というお題で40分ほどのミニ講演をすることになっています。
「二宮尊徳って実際は何をした人なんだろう?」というところから始めて、北海道開拓から戦後の復興期における報徳の役割を語るのに40分というのはなんとも短い時間ですが、まあ仕方ありません。
はしょるところははしょりながらゴールを目指します。
北海道開拓における報徳の役割となると帯広市の礎を築いた依田勉三に触れずにはおられません。
彼は伊豆松崎町出身で、明治14年、北海道開拓のために「晩成社」を率いて上陸します。
しかし天候不順やイナゴの大群、ネズミや鳥の被害などによってほとんど収穫は得られず、その後羊や豚によるハム製造や馬鈴薯栽培を目論んだものの、初期の間はかなり苦しみました。
その後も畜産や木工場、バター工場などをつくり十勝の農業の礎を築きましたが、晩成社としては経営がうまくいかず失意の中に大正十四(1925)年に息を引き取ります。
北海道神宮には本宮からちょっと離れたところに北海道開拓神社というお宮がありますが、ここには創建された昭和13年当時は北海道開拓に功績のあった36人の人たちが神様として祀られていました。
近藤重蔵や最上徳内、高田屋嘉兵衛、間宮林蔵、松田伝十郎など、北方の島々を探検した人たちや、島義勇や黒田清隆など明治時代の開拓使として貢献のあった人たちの名が見られます。
しかしその後、昭和29年に時の帯広市長佐藤亀太郎らの請願によって、依田勉三は追加で合祀され、今ではこの開拓神社には37柱の神様が祀られています。
数字の切れは良くありませんが、十勝の農聖としての功績を後世の人たちは忘れてはいなかった、という意味で良い話だなあ、と思います。
北海道神宮へお参りに行く機会があったら、ぜひ立ち寄ってみてください。
私たちは、この人たちの子孫です。