そろそろ4月期の人事異動の話が聞こえてきました。
思いがかなって重責に登用される喜ばしくも身の引き締まるようなポストに着く人がいれば、希望が果たせず不遇の身に置かれる人もいることでしょう。
どのような未来になってもそれを成長の糧と受け止めて、与えられた場所で自分を燃やし続けてほしいと思います。
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日本史における英雄の中でも代表的なのが明治維新における「西郷どん」こと、西郷隆盛です。
明治の文学者にしてキリスト教思想家の内村鑑三が「代表的日本人(原題:Representative Men of Japan)」という英文による本を著して、この中で代表的な五人の日本人の生き方について書いていますが、その最初に書かれているのが西郷隆盛です。
西郷さんは言わずと知れた、日本を江戸幕府から明治新政府へと向かわせた英雄です。その心は純粋無垢で、清貧に甘んじ飾ったところがなく誰からも愛された方でした。
しかしそんな英雄でありながら、彼の生涯は決して順風満帆なものではなく、試練の連続でありました。
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薩摩の国の片隅に生まれた西郷に目をかけて重用したのは、洋学に目覚め進歩的な考えで藩の富国強兵を進めた島津斉彬公でした。
斉彬公は諸外国に対抗するには公武合体・武備開国を唱え徳川斉昭らと共に14代将軍として徳川慶喜を推しましたが、これは大老井伊直弼と真っ向から対立し、論に敗れました。
斉彬はこれに反対して行動を起こそうとしましたが志半ばにして病に倒れ享年50歳にして急死します。
その後薩摩藩主は島津忠義になりますが、藩政後見人として権力を掌握したのは斉彬に対して批判的だった斉彬の父で前々藩主の斉興で、藩政はそれまでを否定し西郷も窮地に追い込まれます。
斉彬の死によって絶望し切腹しようと覚悟した西郷さんを諌めたのは共に将軍世継ぎ問題で奔走した僧・月照(げっしょう)でした。
しかし幕府に追われたその月照を薩摩で保護しようという西郷の主張は藩では認められずいよいよ絶望した西郷は月照と共に海に身を投じます。安政5(1858)年11月の事です。
すぐに引き上げられた西郷さんは息を吹き返しましたが月照は亡くなりました。
薩摩藩は幕府への手前上、西郷さんを奄美大島へ流しますが、さらに後には新しい藩主の島津久光とそりが合わず沖永良部島にも流され、第一線から距離を置く不遇の時代を過ごします。
その後桜田門外の変(1860)によって井伊直弼が暗殺されると時代は大きく動き、1863年のイギリス艦隊による砲撃後に再び以前の討幕運動に復帰します。
やがて西郷さんは、「蛤御門の変」などで活躍して頭角を現し明治維新を大きく動かす原動力となってゆくのはご承知のとおりです。
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内村鑑三は「代表的日本人」の中で、こう書いています。
「ある意味で一八六八年の日本の維新革命は、西郷の革命であったと称してよいと思われます。もちろん、だれも一人で一国を改造することはできません。
…経済改革に関していうと、西郷はおそらく無能であったでしょう。内政については、木戸や大久保の方が精通しており、革命後の国家の平和的な安定をはかる仕事では、三条や岩倉の方が有能でした。今日の私どもの新国家は、この人々全員がいなくては、実現できなかったでありましょう。
それにもかかわらず、西郷なくして革命が可能であったかとなると疑問であります。木戸や三条を書いていたとしても、革命は、それほど上首尾ではないにせよ、たぶん実現をみたでありましょう。必要であったのは、全てを始動させる原動力であり、運動を作り出し、『天』の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました」と。
さて、朝鮮問題で岩倉らと対立し職を辞した西郷さん、晩年は西南戦争に担ぎ出されて非業の死を遂げましたが、これにより不平士族は勢いを失い、明治維新の完成へと向かうことになります。
いかがでしょう、たとえ死を選ぶほど絶望の淵に立たされても、天の配剤を恨まず誠を尽くせば、人には天がその果たすべき役回りを与えてくれるのだと思います。
内村鑑三は、西郷さんの下記の言葉を記しています。
「人の成功は自分に克つことにあり、失敗は自分を愛するにある。八分どおり成功していながら、残り二分のところで失敗する人が多いのはなぜか。それは成功がみえるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから、失敗するのである」
とても西郷さんにはなれませんが、前向きに今を一生懸命に暮らして行こうではありませんか。