いよいよ今年も後一週間となりました。年々歳々、一年が短くなりますね。
【年末は第九】
知人のSさんに誘われて、札幌交響楽団による第九を聞いてきました。
演奏会の会場は中島公園のキタラで、演奏会場はほぼ満員の入りです。
札響では今回、第九のために市民から公募して札響合唱団を編成したのですが、Sさんの奥さんは声楽を勉強していたのだそうで、そのオーディションに見事に合格してコーラスに参加したのでした。
この演奏会は札響合唱団のデビュー公演でもありましたが、なかなか素晴らしいコーラスでした。
指揮は尾高忠明さん。全身を使った熱い指揮が印象的でした。
* * * *
味気ない話ですが、音楽の音の要素を考えると、人間の耳に聞こえる音は、聴覚上の性質から音の「高さ」・「強さ」・「音色」の3要素とそれらの「長さ」という4つの要素で定義付けることができてしまいます。
これらのうち、高さ、強さ、長さは数値上のデータで表してしまうことが出来ます。
音色は、弦楽器のように引き続けると連続して音が出続けるものや、ピアノや打楽器のように最初のアタックから音が減衰して行くものなど、楽器ごとに特色があります。
しかしこの楽器ごとの音色も、各楽器の特性を音の特性を出すことの出来る音源機器にインプットしておくことで「何番の音」として定義することが可能です。
これがMIDI(ミディ、Musical Instrument Digital Interface)と呼ばれる規格として、コンピューター音楽の進歩に大きく貢献しています。
今ならば、この音源の機械とこれらを正しく動かす音楽ソフトがありさえすれば、だれでもが極めて簡単に作曲や編曲が出来てしまいます。もちろん音の配列や和音などに関する知識は必要ですが。
一度パソコンソフトと音源で演奏をさせると、ドラムは(当たり前ですが)機械のように正確にピッチを刻んでくれますし、同じフレーズならデータをコピー&ペーストすれば何度でも同じ演奏を繰り返してくれます。
苦労して弦楽器や管楽器を習わなくても、極めて精巧に演奏を再現することができます。これがいわゆる「打ち込み」と呼ばれるデジタル楽器による演奏です。
音の強弱だってデータ化できますし、その変化だって自由自在。ピアノと琴と三味線のコラボレーションだってやり放題。まさに「個人オーケストラ」を自由自在に操れる指揮者になった感じが味わえるのです。
しかしそれはまた、生の演奏を聴くのとはまた何かが違います。
大人が楽しむ玩具としてはおそらく最高の部類の一つでしょうが、いくら表現を豊かにしても、どこか生きた音楽という感じがしないのです。
何年もかけて練習を重ねて出せるようになった楽器の音は、デジタルで簡単に出せる音とは当然違うのですが、音源機械の進歩で私も含めて音楽の素人にはほとんどその区別がつかないところまで到達しています。
そしてこのようなデジタル音楽技術の発達が、「音楽というもの」を、安く大量に生産出来る安易な趣味に引きずり降ろしてしまったのかも知れません。
しかし、もはやこのような技術の発達を後戻りさせることは出来ませんし、これらを時代の発展と前向きにとらえるしかありません。
ならばその事を前提にしたうえで、音楽の味わいとは何かをじっくりと考えてみることの方が建設的でしょう。
自分で簡単に作れるプラモデルのような音楽と、プロによる本格的な造作としての作品を区別出来るような、『耳の眼力』を持ちたいものです。
札響による生演奏には感動がありました。
観客のいつまでも終わらない拍手がそれを物語っていました。
【年末は第九】
知人のSさんに誘われて、札幌交響楽団による第九を聞いてきました。
演奏会の会場は中島公園のキタラで、演奏会場はほぼ満員の入りです。
札響では今回、第九のために市民から公募して札響合唱団を編成したのですが、Sさんの奥さんは声楽を勉強していたのだそうで、そのオーディションに見事に合格してコーラスに参加したのでした。
この演奏会は札響合唱団のデビュー公演でもありましたが、なかなか素晴らしいコーラスでした。
指揮は尾高忠明さん。全身を使った熱い指揮が印象的でした。
* * * *
味気ない話ですが、音楽の音の要素を考えると、人間の耳に聞こえる音は、聴覚上の性質から音の「高さ」・「強さ」・「音色」の3要素とそれらの「長さ」という4つの要素で定義付けることができてしまいます。
これらのうち、高さ、強さ、長さは数値上のデータで表してしまうことが出来ます。
音色は、弦楽器のように引き続けると連続して音が出続けるものや、ピアノや打楽器のように最初のアタックから音が減衰して行くものなど、楽器ごとに特色があります。
しかしこの楽器ごとの音色も、各楽器の特性を音の特性を出すことの出来る音源機器にインプットしておくことで「何番の音」として定義することが可能です。
これがMIDI(ミディ、Musical Instrument Digital Interface)と呼ばれる規格として、コンピューター音楽の進歩に大きく貢献しています。
今ならば、この音源の機械とこれらを正しく動かす音楽ソフトがありさえすれば、だれでもが極めて簡単に作曲や編曲が出来てしまいます。もちろん音の配列や和音などに関する知識は必要ですが。
一度パソコンソフトと音源で演奏をさせると、ドラムは(当たり前ですが)機械のように正確にピッチを刻んでくれますし、同じフレーズならデータをコピー&ペーストすれば何度でも同じ演奏を繰り返してくれます。
苦労して弦楽器や管楽器を習わなくても、極めて精巧に演奏を再現することができます。これがいわゆる「打ち込み」と呼ばれるデジタル楽器による演奏です。
音の強弱だってデータ化できますし、その変化だって自由自在。ピアノと琴と三味線のコラボレーションだってやり放題。まさに「個人オーケストラ」を自由自在に操れる指揮者になった感じが味わえるのです。
しかしそれはまた、生の演奏を聴くのとはまた何かが違います。
大人が楽しむ玩具としてはおそらく最高の部類の一つでしょうが、いくら表現を豊かにしても、どこか生きた音楽という感じがしないのです。
何年もかけて練習を重ねて出せるようになった楽器の音は、デジタルで簡単に出せる音とは当然違うのですが、音源機械の進歩で私も含めて音楽の素人にはほとんどその区別がつかないところまで到達しています。
そしてこのようなデジタル音楽技術の発達が、「音楽というもの」を、安く大量に生産出来る安易な趣味に引きずり降ろしてしまったのかも知れません。
しかし、もはやこのような技術の発達を後戻りさせることは出来ませんし、これらを時代の発展と前向きにとらえるしかありません。
ならばその事を前提にしたうえで、音楽の味わいとは何かをじっくりと考えてみることの方が建設的でしょう。
自分で簡単に作れるプラモデルのような音楽と、プロによる本格的な造作としての作品を区別出来るような、『耳の眼力』を持ちたいものです。
札響による生演奏には感動がありました。
観客のいつまでも終わらない拍手がそれを物語っていました。