駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇宙組『夢現の先に』

2023年01月18日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 宝塚バウホール、2023年1月17日15時。

 悪夢にうなされるのが日常になっていた“僕”(鷹翔千空)は、いつものように夢を見ていつもと同じ終わりを迎えようとしたとき、突然声を聞く。“彼”(亜音有星)は「明るい夢の世界へ行こう」と強引に“僕”を暗い場所から連れ出してしまい…
 作・演出/生駒怜子、作曲・編曲/手島恭子。作家のデビュー作、こってぃの初主演作となるバウ・ドリーミング。全2幕。

 初日が開いてすぐに関係者のコロナ陽性が発表されて中止になってしまい、どうなることかと思っていましたが、出演者ではなかったのかなんとか再開。中止期間をスライドするように公演期間が延長され、私も一度は持っていたチケットが飛びましたが、なんとかご縁をいただいて観劇してきました。千秋楽後にすぐ次の本公演の集合日が来ることになるのでしょうから生徒には負担でしょうが、自前劇場の強みも見せてくれて頼もしいです。これでご卒業の(ああもったいない、何故…)の朝木陽彩ちゃんも卒業の日を延長してくれました、ありがたや。
 演目発表時のあらすじや主な配役発表時の役名の「僕」「彼女」「彼」などに湧いたり、SFチックというかちょっとサイバーパンク調というのか…な先行画像やポスターに湧いたりした、なかなか話題の一作でした。前日に配信もありましたが平日で観た人が多くなかったのか、はたまたそれでもネタバレをしない良心的なファンに恵まれたのか、私もネタバレのないままにフラットな気持ちで観劇できました。
 というかいただけたのが4列目センターブロックというお席で、ほぼノーオペラでしたありがとうございました…なので視界は問題なかったのですが、音響は後方席の方が響きがいいのかも? スピーカーの死角(とは言わないのかな?)になる席なのか、ずいぶんと音量が小さく感じられました。ただしこれはまだまだ声ができあがっていない下級生が多い座組デマだマイクに上手く声が乗せられていないから、だったのかもしれません。なっつと大路くんの会話の場面とかは問題なかったもんなあ。あとはBGがほぼなくて、楽曲の伴奏もかなり薄かったせいもあるかも。このあたりは好みもあるし、あまりうるさいのもこの作品にはそぐわなかったかもしれませんが、音楽って生徒の演技の支えになるから…こってぃは歌が上手い人という印象がありましたが、今回それほどでもない印象を与えてしまったのはそのあたりのせいもあるかと思います。まあこういう歌唱を味で聴かせるのはまだまだ技が要るよ、それこそこっちゃんクラスでないと…とは思ったかな。なのでもう少し演出として手をかけてあげればよかったのに、と思いました。
 そう、なんか全体に淡泊というかライトというか、こういうネタにしてはあっさりしてんなー、と感じたのは私がオタクで過剰で理屈っぽくてしつこくて饒舌な人間だからでしょうか…もの足りないとも思ったし、でもコレが今どきなのかなとも思ったし、まあデビュー作は作家性や個性が出るものだからこれがそうだというならそれでいいんじゃないの、とも思いました。そして若い座組も十分健闘していたと感じました。もちろんやっぱりダレて見えてもったいないなと思う場面もありましたけどね、それは特に花屋場面。いやココ、ここが現実の場面だから重要だし、いいホンだしいい芝居してるんですよみんな、でもやっぱり埋められていないの。それで観客も何を見せられているのかわからなくて迷子になって、誰かの着替えのための時間を捻出しているのかな休憩場面なのかな、とか慣れた舞台脳が判断しちゃうんですよね。でも本当はいいことやっているしけっこう重要な場面なので、もうちょっと演出がなんとかしてあげられるとよかったんじゃないかな、とか思いました。でもラスト近くの病院の場面とかは音楽なんかなくてもちゃんと密に作れてましたよね、まだムラがあるのかな…
 ちなみにちょっと話がズレますが、お花屋さん店員のフランク(大路りせ)がエマ(山吹ひばり)を好きなのはいいとして、モニカ(朝木陽彩)がフランクを好きとか店長(秋奈るい)がモニカを好きとかがないのが今どきだなと思いましたし、その塩梅がホントちょうどよかったです。私ならついそう盛り込んじゃったと思うんですよね(笑)。このあたりの関係性とか、花屋の客の母娘に対するエマの仕事の顛末とかは、けっこう主人公の動向に関わってくるエピソードだと思うんですよ。でもことさらには取り上げられないので、ボーッと観てると余計に「ところでコレなんの場面…?」ってなっちゃうんじゃないかなあ…全体に、このお話はどうなるの?って興味でちゃんと引っ張れている作品ではあるんだけれど、まだまだ緩急が作れていないので、観客の集中力が途切れる瞬間をなるだけ作らないようもっと工夫してほしい、とは思いました。まあそのあたりは作家の場数かな? ちなみに場面転換はそつがないなと感じました。
 まあそうした部分ももろもろ含めて、やっていること、やろうとしていることは悪くないな、とは思いましたかね。毎度偉そうな物言いですみません。以下、ネタバレで語ります。

 まず冒頭、私は録音モノローグが大嫌いですが、ここは一発「僕は毎夜同じ夢を見る。暗い、重い夢を…」みたいなのを入れてもいいのではないかと思いました。観客のみんながみんなプログラムを買ってあらすじに目を通すなんてことはないし、公式サイトや「歌劇」などの記事で作品の設定や内容を把握して来場するなんてことはまずありえません。「これは主人公の夢の中の場面なんですよ」という説明がなるべく早く、きちんとないと、自分が何を見せられているのか理解できなくて不安になる、なんなら飽きて投げ出す観客は意外と多いと思う。それくらい最初の場面は長い。現実の場面になるまでが長すぎ、立ち位置が不確定で観ていてちょっとしんどい、と私は感じました。
 ところで“僕”がこの暗い夢を見ているのはこの十年、つまり父親の死に目に間に合わなかったときからずっと、なのかなあ? それとも“彼女”から傘を借りて、一目惚れして、でも返しにも行けずましてやなんのアクションも起こせてないこの一か月、のことなのかなあ? なんにせよ、今まで聞こえてこなかった“彼”の声が急に聞こえて、“彼”の明るい夢に連れていってもらったのは何故なんでしょうね? このあたり、理屈が欲しい気がしたのですが、あとになっても特に「ああ、そういうことか」となる説明がないんですよね…理屈じゃないんだよこういうことは、ということなのかもしれませんが、うーむむむ。
 現実の“彼”は脳死状態というわけではなくて、たまたま昏睡しているだけ、意識が戻らないだけなんでしょうか? 私はその差についても全然くわしくないけれど、脳波にときどきは変化があるとか覚醒の気配があるとかがあって、でも“彼”は現実復帰を怖がって拒否して、白い羊たちも“彼”の真意にシンクロしている…ということなのかな? それがあの羊が怖がる音とか開かない扉とか、パルス電子音とかなになっているのかな? そしてその現実への浮上の気配がたまたま“僕”の夢の世界とリンクして…とかかなとか思ったのですが、なんせそういう理屈っぽい説明がまったくないんですよね。まああまりやるとくどくどしくなるんだけれど、それでももうちょっとあった方がいいんじゃないの?とは思いました。なーんにもないんじゃ、それこそなんで?なので。いや生駒先生は(れーこたん、とかいうほどキャラを知らない…何かの担当新公は観ていると思うのですけれど)世の中ってそういうものだ、因果関係がなくても関わり合うものだ、ってお考えなのかもしれませんけど…
 私は“僕”の名前がアベルだというからには、カインという兄弟がいるのか? それが“彼”なのか? 幼いころに死んでいてその幽霊とか? いや幼いころに病気で倒れてそのまま昏睡していて、だから“彼”は夢の中で身体は青年になっていても心は子供のままで無邪気なのか?とか、アベルは兄が病に倒れたことがショックで兄の存在そのものを忘れているから“彼”に気づかない、とかなのか? とかいろいろグルグル考えたんですけれど、そういうのは全然なくて、単に“僕”の父親が死んだときの病院に入院している患者、ってだけなんですね…? うーん…
 アベルの父親も亡くなるような歳じゃないので、交通事故とか、その相手が“彼”だったとか…とかも考えたのですが、そういうことでもなく…うーん。そしてこの父親も、長患いでもしていたんでしょうか? これもほぼ説明がありませんでしたね。母親の反応は愛が重いのかややヒステリックでしたが、なので以後逆に息子にはかまわなくなり、彼は孤独な青年になってしまった、ということなのでしょうか…このあたりも説明がない。“彼女”の家族が仲睦まじいので、それに重ねて何か台詞や語りがあってもよかったのに、どうにもあっさりというかライトというか、設定の説明がないんだよなあ…
 これは、“僕”が“彼”の夢の世界で“彼女”への告白の練習をして、現実の世界でも勇気を振り絞って一歩踏み出してみて、練習とは違ったけれどなんとか上手くいきだして、トラウマのように避けていた病院にも行けて、そうしたらそこに入院している“彼”を見つけて、今度は“僕”が“彼”に手を差し伸べ、背中を押し、現実に招き入れる…というようなお話ですよね、要するに。「未来を諦めたくない」「現実をひたむきに生きようともがく」と、プログラムのコメントにもあります。悩みすぎず、逃げずに、踏み出してみること、向き合ってみること…の尊さ、がテーマなんだと思うのだけれど、それぞれの素材がちょっとパラパラとしているようにも思えたので、なんでもかんでもつなげると暑苦しくなりすぎる、というのはわかるけれどもうちょっと、理由付けとか理屈の台詞、説明があってもいいのかな、とは感じました。特にくだくだしい説明がない、淡くほややんとした、無垢の優しさだけが満ちる世界を構築したかったのだとしても、それだとやはりちょっとインパクトが弱く感動が薄れるんでないかい?と、旧世代の濃いコテコテのオタクは感じたのでした。あと、なんか理屈が通ってなくてスッキリしない(笑)。
 でもまあ、一幕はぶっきーがヒロインだけど二幕はキョロちゃんがヒロインなんだな!?とか、やっぱなっつが上手くて任せて安心とか、ここさくも可愛いけどやっぱ栞菜ひまりちゃんめっかわだね!?とか、ナルセンドウもマジいいが奈央麗斗くんなんかキラキラしてますね怖い沼み…とか、ちょっとフィナーレたっぷりで男役群舞みんなギラギラやる気あるじゃないのもっと順にゆっくり見せてくれよとか、みんなに台詞も歌も一節ずつあったと思うのでそういうのいいねやっぱバウはそうじゃないとね、とか考えていたら終わったので、満足です。でも配信なら寝てたかも…なので生で観られてよかったです。
 お衣装(衣装/澤井香菜)もセット(装置/川崎真奈)もなかなか印象的でした。てかモフモフソングの素敵アレンジでカッコつけてフィナーレ踊るのスゴいねこってぃ、よく笑わないね…(笑)加わるキョロちゃんもバーンとしていて良きでした。みんなにいい経験になっていそうですよね。
 娘役ちゃんもみんな可愛くて、複数回観られればもっと識別できるのに~!と歯噛みしました。夢の住人女スタイル、みんな違って、でも白とベージュの統一感が素敵でした。あとおかゆな! フィナーレのウインク、バッチリ目撃しましたよ!!
 この演出助手は西川日向子先生、またまた知らないお名前です。大変でしょうががんばって、どんどん出てきてほしいなあ。若い力に期待しています。
 こってぃ、改めてバウ初主演、おめでとうございました。性格的に私が私が、というタイプじゃないんだろうし、万博アンバサダーからも外れてこのままハシゴ外されちゃうのかなーと案じていたところに主演の報があって、よかったです。ちょっとしどころのないようなお役でもあるし、でも決してただの素ではなく、優しくもの慣れない純粋な青年をきちんと演じていて、好感を持ちました。フィナーレはもっともっとバリッとやっていい気もするけど、まだ気恥ずかしさが見える気もしました。でもこの経験をバネに、さらに飛躍していただきたいです。
 ぶっきーもひと頃はエキセントリックさがもっと目立っていた気がしましたが、今回はいいヒロインっぷりで安心しました。変な声も好きだ!(すみません)ちょっと細すぎるんだけど、これもいずれ変わってくるでしょう。単に若くて痩せてている女の綺麗さと娘役の綺麗さって違うので、やや丸いタイプが絞っていく方が楽かもしれないんだけど、ひっとんも夢白ちゃんも初期の病的な感じの細さじゃなくなっていったので、多分きっと大丈夫。期待しています。ただ、プログラムといいスカステニュースの扱いといいヒロインカウントされなさそうなので、次期トップ娘役に仕立てる気はまだない、ということなんでしょうねえ…てか発表いつ??
 キョロちゃんも、素みたいな役を当てられている気がしますがちゃんと芝居しているんだとと思います、よくわからんけど(笑)。やはり華があっていいですね。どんどん増えていくチューブが痛々しくて、ときどき見せる暗い顔の芝居がちゃんと物語に「実はなんかあるんだな」という奥行きを与えていて、良きでした。さらに励めよー!

 花組大劇場公演の再開も決まってよかったです。休演者の多さは心配だけれど、興行としてはもうやらざるをえない、ということなのでしょう。私はもうあとは東京待ちだけれど、まずは星組東京公演も残りは順調に上演されますように。引き続きいろいろと綱渡りですが、なんとか乗り切っていただきたいです。
 そういえば最近私は睡眠が充実し、楽しい夢をたくさん見ている気がします。在宅勤務の何がいいって通勤時間が浮くことで、その分たくさん寝られている気がします。すると朝方、目覚まし時計が鳴る前、睡眠は足りて部屋も遮光カーテン越しに明るくなり脳はやや覚醒しつつ、でもまだ寝られる、という時間帯に楽しい夢をたくさん見る気がして、まあ起きたら端から忘れるんですけど、とにかくその時が至福なのでした。つまりそれくらい私は健康に過ごせているということだと思います、ありがたや。引き続きよく食べよく寝て、仕事は一応ちゃんとして、しっかり遊んでいきたいです!





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『ザ・ビューティフル・ゲーム』

2023年01月17日 | 観劇記/タイトルさ行
 日生劇場、2023年1月15日18時。

 イギリス領北アイルランドの首都ベルファスト。街ではIRA(北アイルランドの独立を訴えるカトリック派の組織)の活動が日増しに盛んになり、宗派の争いは街を分断していた。それでもここで暮らしサッカーを愛する人々は、試合を「ザ・ビューティフル・ゲーム」と呼び、応援するチームの試合を最も大事にしていた。ジョン(小瀧望)はそんなサッカーチームのエース選手であり、将来はプロサッカー選手になることを夢見ていた。チームメイトのトーマス(東啓介)、ダニエル(新里宏太)、ジンジャー(皇希)、デル(木暮真一郎)たちと共にサッカーに青春を捧げ、国内リーグでの優勝を目指して毎日汗を流していた。スタンドに座るメアリー(木下晴香)、クリスティン(豊原江理佳)、バーナデット(加藤梨里香)ら女の子たちは、それぞれ意中の若者たちに声援を送っていた。しかし街ではプロテスタント派とカトリック派の争いが激化し、チームにも不穏な空気が忍び込み始める。逆らうことのできない運命は、ジョンに人生を変える大きな選択を迫る…
 作曲/アンドリュー・ロイド=ウェバー、作詞/ベン・エルトン、上演台本・演出/瀬戸山美咲、振付/ケイティ・スペルマン、訳詞/福田響志。2000年ウエストエンド初演、06年日本初演、08年には『The Boys in the Photograph』と改題されたミュージカル。全2幕。

 2014年の公演を観ていて、そのときの感想はこちら。本国でも都度ブラッシュアップして上演されている演目のようで、今回の公演は15年版をもとにしているのと訳詞も演出も違うので、また全然違う味わいになっているのかもしれません。イヤくわしく覚えていないので比べられないのですが…(^^;)
 ただ、シンプルというか剛毅というか、こんなに剥き出しな作品だったかなあ?という印象を持ちました。ただ、前回感じたようなわかりづらさはないかな、とも思いました。でもやはり異教徒の身からしたらカトリックもプロテスタントも同じキリスト教なんでしょ、とか言いたくなるし、キャストたちが勉強会をしたように彼らはみんな、家族の誰かがこの争いで死傷しているような、死と隣り合わせのヒリヒリした現実を生きているということのようですがそれはちょっと伝わらないかな、とは感じました。
 でもジンジャーが襲われるのが唐突だとは感じなかった。それは作品がそういう空気を作り出せていたからというよりは、我々観客が生きる現実が、現在の日本社会でテロなどの暴力行為やヘイト暴力なんかが顕在化されてきたからかもな、とも思いました。でもメアリーが奮闘しているようなデモ活動やロビー活動は、未だあまりメジャーじゃないし心ない連中に冷笑されたりしている。そして彼らが神の国を讃えて歌う感動的な歌は、今の我々には話題のカルト宗教とそれに癒着した与党政府とのキャッチフレーズを思い起こさせて、恐ろしいし気持ちが悪く感じられます。不幸なことです…五十年前のベルファストと同じくらい今の日本は荒廃しつつあり、ベルファストやアイルランドはそれでも遅々としてであれ前進してますが我が国はむしろ凋落している。悲しいことです。かつてこの演目を観たときには、遠い国の昔の話でやや他人事であり、でもここから学んで我々はより良き世界を作っていかなければ…などと考えたと思うのですが、人間とは学習できない生き物なのでしょうか? それともこの国に生きる者特有の病??
 クリスティンがトーマスを嫌い、デルと恋に落ち、子供に恵まれ、アメリカに移住することが救いであり希望です。もちろんアメリカだって楽園ではなく、差別も貧困も困難も彼らを待ち受けていることでしょう。でも、まず、物理的に広い。だから精神的にも逃げ場ができるし選択肢が増えるし視野が広がると思うんですよね。それが希望です。
 一方でジョンは、物理的に閉鎖空間である監獄に入れられて、周りがIRAシンパばかりで、偏向させられてしまう…非常にわかりやすく対照的だと思いました。
 なんせ覚えていないのでオチはどうなるの?とハラハラしながら観たわけですが、これはハッピーエンドなような単なる妄想エンドのような…な気がしました。もちろん、こうやって生還し家族のもとに帰ってくる者もいるでしょう。でもそうでない者、抗争の中で落命する者の方が圧倒的に多かった闘いのはずです。細かい経緯は語られないまま主題歌リプライズのラストシーンになだれ込むので、幻想感はいや増します。それでも現時点ではこうとしかこの物語をまとめられない、というのもわかります。ラストの不協和音コーラスは、この作家独特のものでもあり、やはりこれが単純な、美しく理想的なハッピーエンドではないことを示しているようでもあります。一方で、多様性とか、ハモらなくていい、調和しなくても生きているだけでいい、みたいな素朴なエネルギーを寿ぐもののようにも聞こえる気もします。どんな捉え方もできるように観客に委ねられて、暗転、閉幕。しっかりした作品でした。
 役者がまたみんな達者で危なげがなかったのも、作品に没頭できてよかったです。ジャニーズファンにあんなチューチューする芝居を見せてええんかいなとか、余計な心配はしましたけどね。
 描かれていなかったけれど、どうかバーナデットにもその後の未来、幸福が訪れていますように。やはり描かれていないだけでその後とっくに落命しているのかもしれないけれど、生きているなら、ダニエルにも。ジンジャーやトーマスには「未来」はなくなってしまったのだから。
 生きて、幸せになること、少しでも良き世界を作る努力を重ねること。生きている者、生き残った者の義務です。物語の中だけのことではなく、舞台の外、我々観客も同じことです。すべての差別、ヘイト行為にNOを。すべての人が等しく尊重される社会を。生命や財産や健康や幸福を脅かされ侵害されることのないような社会を。健康で文化的な最低限度の生活を送れるような社会を。求め、声を上げ、働きかけ続けるしかないのでしょう。でないと早晩、こうした観劇などの娯楽すら奪われる未来が来る…そんな「戦前」など、冗談ではありません。
 微力ながら、がんばりたいと思います。



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宝塚歌劇宙組『MAKAZE IZM』

2023年01月15日 | 観劇記/タイトルま行
 東京国際フォーラム ホールC、2023年1月12日15時半。

 宙組トップスター真風涼帆の過去と未来に迫るリサイタル。構成・演出/石田昌也。全1幕。

 ダーイシは打診を受けた際に『FWM』を観てから、と即答しなかったそうで、それは自分が「時代に付いて行っていない」自覚があったからでもあるんだそうな。よくわかってんじゃん。なら勉強するか、勉強するほどの情熱がもうないなら引退するべきだと思うんですけど…今回は若手スタッフたちにアンケートなどもして、好きだったゆりかちゃんやゆりかちゃんで観たかったものを並べるタカスペならぬマカスペに徹することにしたようで、それは奏功していたと思います。拡大版さよならショートでも言いましょうか…ただ、すべて演出助手を務めている雑賀ヒカル先生の手腕によるものなのかもしれません。どうかパワハラ被害などに遭っていませんように、とせつに祈ります。
 だってこの期に及んで、というか今回の文春砲事件があろうとなかろうと、「海人イレブン」みたいなコント場面の台本に許可を出している、あるいはスルーしたまま上演させている劇団の気がホント知れないんですよ。ホテル支配人らしきすっしーと副支配人のまっぷーが、リゾートホテルでバカンスを楽しんでいるミスターSのゆりかちゃんに、「カンパニー」と呼ばれる職場に戻るよう言い、スターSは「あそこでは大変なことばかりやらされてきたから嫌だ」とゴネる…という設定なんですよ? もちろん、そのあとに出てくる、ずんちゃんカイルやあきもニコライ、しどりゅージョルジュや極めつけはかのちゃんホームズという、メンバーが扮するゆりかちゃんのかつての役たちとゆりかちゃん扮するスターとのデュエットがキモの場面なんだ、ということはわかりますよ? でも、清く正しく美しい、愛と夢と伝統のスミレの花園を、ブラック職場だとにクサして落として笑いを取ろうとするようなホンを書く男なんですよ所詮ダーイシは。なんでこんな作家をいつまでも起用してるの劇団? なんでこんなコントをのうのうと上演しているの劇団? なんでこんなことを毎度毎度スターにやらせてんの劇団? なんで気づかないの反省しないの改善しないの劇団?
 そんなんだからMCでのフォローがあろうとなかろうと「でも事実無根ではないんでしょ?」って思われちゃうんじゃん、だって一事が万事なんだからさ。文春砲事件がなくても私はこの場面にざらりとしたものを感じたでしょうが、あってなお未だ台本に手も加えずに上演し続ける劇団の神経が心底理解できません…馬鹿なの? ねえ、馬鹿なのかな??
 第二文春砲事件に関しては後述します。

 まあそれも含めて、たとえばオープニングのお衣装なんかももう完全にダーイシ節で、まあでもそれは「あー、ねー、ハイハイ」って感じだしなんせスターが人質に取られているんでおとなしく観ますよそれはね。
モアダン』ではなかった「♪ダンディー、それは~」があるのは何故?とか思っていたら、『ネオダン』がゆりかちゃんの初組子ショーだったのかな? 懐かしいですね、この歌自体は好きだったので私は嬉しかったです。星組時代の楽曲のメドレーも懐かしく楽しかったです。プログラムにはもっと絡む組子含めて細かく紹介、記載してほしかったけれど、まあセトリをバラしたくないという判断なのでしょう。でもせっかく少人数口で使われる下級生の識別チャンスなのになー…考慮をお願いしたいところです。
 ずんちゃん指導の下、客席が三三七拍子の手拍子で参加する「ナイガイ」は楽しかったです。やったことないけど、太鼓の達人とかのリズムゲームみたいでもありました。
風共』企画もよかったと思います。ゆりかちゃんのバトラー姿ももちろんいいけれど、これはなんか観たことある気がしたので、それよりかのちゃんのスカーレット姿に感動したなー! かのちゃんなら真紅のドレスか緑のカーテン地のドレス、喪服の黒ドレスも似合いそうだけれど、ここはベタにこの緑のヘアリボンとサッシュベルトに白の段々フリルのおっきな輪っかのドレス、やはりコレですよコレ! なんせかのちゃんはこのままいくとおそらくショーで一度か二度くらいしか輪っかのドレスを着ないままに卒業することになりそうじゃないですか、着せられるチャンスにはなんぼでも着せましょう! 別に歌は上手かないんだけどそれはゆりかちゃんもおんなじだからいいんです(^^;)。さらにずんちゃんセンターのセントルイス・ブルース、そしてゆりかののナイタンデー! キャー!! これは滾りました、大階段と銀橋が見えました。あの手のひらチョン!はやっぱやってくれないとねー!! あっきーの顔しか観るとこねえ、と思って通っていた宙『風共』の供養が少しはできましたよ…
 でも歌の前の台詞は、おそらく卒業を控えたふたりに沿うように変更したつもりなんでしょうが、今ひとつ不発だと思いました。こーいうとこだよダーイシ…
 あと、ここがゆりかので観たかったものコーナーだったのなら、『風共』一発だけでなくフェルマリとかトートシシィもやらせるとかしてもよかったのではないでしょうかね?
 ジャポネスク場面は、ずんちゃんともえこが青い法被に黄色の襷、差し色が赤で、ガンダムかドラえもんみたいで良きでした(笑)。ゆりかちゃんに熊本民謡を歌わせて、かのちゃんには娘役全員引き連れてソーラン節、というのも大正解。
 そこからのコント場面はコンセプトはアリだったと思うのですが…そして娘役のアイドル場面、アイドル歌唱だったのがちょっと残念だったかなー。もちろん、あえてなんでしょうけど、単に下手なのと紙一重だなと私は感じたし、この楽曲でももっと娘役芸としての可愛くてカッコいい歌唱をしてほしかったのです。
 そこからのトーク・コーナーは、私が観た回はかのちゃんがすっしー、まっぷー、ずんちゃんそしてゆりかちゃんの似顔絵を描いてきて、どれが一番似ているか観客にペンライトの色で判定してもらおうというもの。かのちゃんが「今日はサプライズです!」と言い出すのにずんちゃんが「いつもじゃん!」と即つっこみ、「3秒待ってください!」と言って似顔絵を取りに袖にハケるかのちゃんに「自由だなー!」とずんちゃんがまたつっこむのを観て、ああ毎回こんななんだないつもこんな感じなんだな、と微笑ましく察しました(笑)。似顔絵はほぼどれも同じやんという出来で、判定はわずかにゆりかちゃん。でもその後、吸水係として現れた鳳城のあんくんが描いてきた似顔絵がイラストふうのやや小洒落たもので、かのちゃんは本気で焦り、ずんちゃんが「歌劇」のえと文に載せると言い出してまた本気で悔しがり、ジタバタ地団駄踏んで「昭和のアニメみたいな動き…!」とまたまたゆりかちゃんをツボらせる、楽しい一幕もありました。
 そのあとはJ-POPコーナーだったのかもしれませんが要するにカラオケだな、という感じ。そしてまた主題歌を全員で…みたいな流れでしたでしょうか。
 やはり男役も娘役ももうちょっと少人数口を作って、誰が誰か識別できる時間、場面が欲しかったなーとは思いました。ピンの出番があるのはずんちゃん、もえこ、じゅっちゃんくらいで、あとは出るとなったら常に一緒に全員出るバックダンサー扱いだったからです。
 ただ、もちろんそれでもキヨちゃんのダンスは目を惹きましたけれどね。あとさよちゃんはもはや娘役の長ですが、どの場面でも髪型に工夫があったし、金髪のヒロコはどの場面でもお人形さんのような美しさ愛らしさで目立っていましたし、そこにまた違う生き生きした魅力とコケット、パンチを乗っけてくるさらちゃんがとてもよかったです。有愛ちゃん、愛未ちゃんは特徴あるお顔だし、夢風ちゃんと美星ちゃんを覚えられた気がしているので、あとふたりももっとじっくり見たかった…!
 …と、そんなメンバーチェックをしていたら二時間弱なんてあっという間なので、まあ一回観るくらいの私程度のファンならそこそこ満足なショーだったのではないでしょうか。セット(装置/稲生英介)も定番ながらゴージャスに見える仕様で、小さな盆も効果的でよかったと思いました。
 無事に休演日も越えたようですし、後半戦もしっかり盛り上げて、無事の完走をお祈りしています。


 最後に。
 前回のダーハラ号とは違って、今回の「週刊文春」は私は読めていません。次に出社したときに会社の資料室とかで読めるかもしれないけれど、まあ読まないかな。もう面倒だしな。
 電子で有料部分を読んだ知人によれば、「劇団関係者」なる者の伝聞レベルの「証言」だそうで、そんなのうちらファンだって立派な「関係者」だし、呑んで愚痴って噂話するレベルの戯れ言クラスの話だな、と感じました。ちょっと芝居やダンスの息が合わなければ「実は仲良くないのかね?」くらい言うし、リフトがなければ「男役の腰が悪いのか、娘役の乗り方が下手なのか、仲が悪くて息が合わないのかな?」くらい言いますよファンでも、誰でも。あまり前例のない、ほぼ不可解と言ってもいい人事があったときとかも、何が原因なんだろうとかそりゃ憶測するし勝手な推理するしまことしやかに語ってみせたりしますよ仲間内ならね、呑みの席でならね。そのレベルの話でしょう? わざわざこんな記事にしても、メイン読者のおじさんたちには芸名も読めないし誰かも知らないし観たことなくて関係なくて、全然望まれない、売れない記事だったんじゃないですかね? なんのためのものだったのか、純粋に疑問です。この話題には宝塚ファンしか興味を持たないし、ファンはスルーするか手を出さないか手が出せないかだと思うので、売り上げにも広告にも評判にもなんら寄与しない気がしました。これで飽きて文春がもっと意味ある方向を向いてくれるといいんですけれどねえ…
 ただ、上下関係が厳しい世界であることは喧伝されていて、美談として語られがちだけどその「指導」がいきすぎていないのか、高圧的になりすぎていないのか、立場が弱い者をただいじめる形にはなっていないか、という観点はあたりまえですが常に必要です。そして劇団がそれをきちんと把握し正しくコントロールできている組織だとはとても思えない、たとえファンでもそんな信頼は劇団には寄せられない、そこが問題なのです。だから、戯れ言レベルの噂話や与太話、事実無根とされる誹謗中傷であろうと「ああ、まあ、でも、そういうこともあるんじゃない?」と、ファンにすら思われてしまう。そこが問題なのではないですか。劇団はこの問題を真摯に受け止めてほしい。そしてマジで少しも早く専門家の手を借りてください、あんなリリース出しただけで済ませられると思っていられる企業マジ今ヤバい。
 事実無根の誹謗中傷だというなら、文春にきちんと抗議し法的措置も辞さずに行い、そのことをこそファンに報告すべきです。そうした措置の報告も何もないあんなリリースならむしろ出さない方がよかった、完スルーの方がマシでした。そういう突っぱね方を貫く、スミレのカーテンを下ろし続けるという道はあったと思うからです。
 そしてもちろん、どういう経緯ですることになったのか、どこまで事前の確認や許諾があったのかははなはだ謎ですが、今回のリサイタルのトーク・コーナーで生徒自身に弁明させるなんてことはとにかく絶対にするべきではなかった。しかも加害者側とされる片方のみの発言なんて、絶対的におかしい。双方それぞれの言い分を聞かなければ、真実が何かは解明できないのではないですか? しかも、コメントはよくよく考えられたものなのかもしれないけれど、「彼女は私の言葉をそんなふうに受け取る人ではない」という言い方は、受け取りようによっては加害とも取れる発言を上級生側がしたこと自体は否定していない、ということになる。そこは認めてしまっていいのでしょうか? でもどんな意図であろうと真意であろうと、された側が被害だと感じればそれは害なのです。こうした発言そのものを改善していかなければならないのです。そこをスルーしようとしていないか劇団?
 実際にはそりゃイロイロあったのかもしれないよ、人間だもの組織だもの。でもプロなんだし、ガタガタ言わずにビジネス・パートナーとして黙って互いにベストを尽くせや、とも思うし、周りも最大限のサポートをするべきだとも思います。だってそれで商売している団体なんだから、そこが売りの組織、芸なんだから。でもトップコンビ一本被りで非人間的なまでに働かせてはいけない、しごきやいじめで働かせてはいけない。当人たちが自主的に、楽しく、気持ちよく、健康に働ける環境を整える必要が、経営者側にこそあるのです。
 劇団が、やるのです。演目としてサービスとして、より豊かな高みを目指すためにも、所属する若者たちをきちんと育て導き自立していけるように計らい、労使ともども互いに尊重し合い助け合い高め合って、より良きものを客に見せて金を取る…それを目指すべきでしょう劇団は。そのために誠心誠意注力すべきなのです。
 お嬢さん芸、とか言われがちな宝塚歌劇だけれど、経営側こそいつまでも坊っちゃん芸でやってんじゃねえ、と言いたいです。プロとして、21世紀も生き残っていこうという企業として、もっと腹括ってアップデートしてコンプラ守ってキリキリしっかりやらんかい、と言いたい。現状、まったく信用できません。目に見えていることがすべてです、そこから推して知るべし、です。改善の予感すら感じられない今回の措置には本当に納得しかねますし、ただただただ残念です。
 ゆりかちゃんがまどかにゃんに電話して、かのちゃんもまどかと長々話して、なんの問題もなくて、お互いがんばっていこうねってなって、ってのも、まあそうかもね、よかったね、とは思いますよ。それは嘘だとは思わない、でもだからって上級生から下級生への指導という名の暴言めいた圧力が絶対になかったなんてそれこそ絶対に言いきれません。逆に言えばどこででもあることで、でも決してあってはいけないことで、なくしていかなきゃいけないことで、そのための不断の努力が必要なことなんです。報告、発表するならそういう、なくしていくために新たに講じた策とか、そういうことであるべきです、「あんなの嘘です」みたいな子供の言い訳みたいなしょーもないリリースではなくてさ。
 あとは、再三言っていますがトップ娘役の極端な低学年化をやめることです。トップスターの就任時期はいっこうに早くならないのに、トップ娘役は新公内がほぼデフォルトなのはおかしいです。娘役は女優とは違います、若く綺麗なかわい子ちゃんになら誰でもできるというものでもない。娘役にも年月をかけた娘役芸の習得が必要なのです。若くさせたいならコンビともども就任学年をもっと下げるべきで(セカンドキャリアのことを考えて私はずっとこの説を提唱してきました)、トップコンビの学年差が十も十二もあるのは不似合いだし不自然です。プロジェクトのリーダーコンビとして経験差がありすぎて、そこにほぼすべての興行を背負わせようなんて無理ゲーです。こんなプロジェクトを組む経営陣の方がおかしい。女は若い方がいい、と言うしょーもないおっさん理論丸出しでもある。今すぐ滅べ。
 そしてもっとお見合い爺として責任を持て。きちんとしたビジョンを持ち、事業計画を練ってくれ。いろいろ試していろいろ模索して、それでも敷いた線路のとおりに走ってくれない列車なのかもしれませんが(いいのか親会社が電鉄なのにそんなんで)、最大限の努力をして最高の座組で興行してほしい、それに尽きます。
 人を愛し、信じ、慈しみましょう。基本的人権を尊重しましょう。関わるすべての人々を尊厳ある存在として扱い、愛と夢と希望に満ちた作品を作り出しましょう。その上でもちろん儲けましょう、そしてそれはまた社会に還元していきましょう。それが創作、経済、世の中の仕組みというものです。困難な道です。だがその覚悟がない者は今すぐ去れ。
 他山の石どころか火中の栗です、イヤこの栗は他人のものなので正しい喩えではないですね。ともあれ新年早々大変なことですが、膿を出すのが早い方が治りもまた早い。気合いを入れてがんばるしかないのです。
 みんながみんな、なんでもいいと言ってついてきてくれる盲目的、妄信的なファンばかりじゃないよ。これで心が折れて観劇回数を減らしますって層が一定数いるよ、それくらいファンの多くの女性の多くはつらい現実に傷ついているんですよ。慰めを求めて観た宝塚歌劇にまで裏切りの影が見えたらそら離れますよ、それは肝に銘じないとダメですよ。今までなんとかなってきたんだとしても、今は本当に厳しい時代です。その覚悟を持ってくれマジで。
 私はたかだか三十年観ているだけの一ファンにしかすぎませんが、この社会の立派な構成員のひとりです。この意見を無駄にすることなく、一歩ずつでも改善し前進していってほしいです。私も日々アップデートに心がけます、しょーもない老害になりたくないですからね。
 言われているうちが花ですよ、お互いにね。頼みますよホント…





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『宝飾時計』

2023年01月12日 | 観劇記/タイトルは行
 東京芸術劇場プレイハウス、2023年1月9日17時半(初日)。

 10歳から29歳まで、奇跡の子役としてミュージカル『宝飾時計』の主役を演じてきた松谷ゆりか(高畑充希)は、30歳となった現在も女優として活躍している。当時は何故か背が伸びず、精神年齢も妙なところで止まっていたが、一年前にマネージャー・大小路祐太郎(成田凌)が現れて、今は恋人となった彼との将来を考え始めていた。そんなとき、『宝飾時計』二十周年記念公演でのカーテンコールで、メイン曲を歌ってほしいとの依頼が入る。ゆりかは初代キャストで、当時主役をトリプルキャストで務めた同期の板橋真理恵(小池栄子)と田口杏香(伊藤万里華)がいた。ゆりかはふたりを招くことを条件にオファーを受けるが…
 作・演出/根本宗子、美術/池田ともゆき、衣裳/神田恵介、テーマ曲作詞作編曲/椎名林檎。当て書きで執筆された新作プロデュース公演。

 出演者に好きな人が多く、タイトルとポスタービジュアルに惹かれてチケットを取ったのですが、くわしいことは知らず調べず、タイトルのレトロさから「菊池寛とかの戯曲か?」とか思って劇場に出向いたくらいでした。新進気鋭の女性の劇作家さんなんですね、『クラッシャー女中』のタイトルだけは聞いていましたが不勉強ですみません…
 常に当て書きで戯曲を書く作家さんだそうですが、今回も5年ほど前に高畑充希に自分に芝居を書いてほしいと言われて、ここぞということで作った作品だそうです。確かにメタっぽく、しかしもちろん当人がモデルということは全然ないし、もっと違うところに焦点というかキモがある舞台で、私は夢中で食い入るように観てしまいました。
 というかたまたま行けるのがこの日しかなくて初日を取ったのですが、だからなのかロビーや客席を見渡す限り客層がとても若く、なんとなく普段お芝居なんか観なさそうな層で(偏見ですみません)、不思議な空気がありました。誰のファンなんだろう、どこに宣伝しているんだろう…ともあれ新しいお客さんが増えているならそれはとても良きことですね。ただしこの作品は舞台ならではのギミックにあふれているのはもちろん、メタっぽい部分なんかが舞台ファンが観た方がおもしろいだろうな、とは感じました。ついていけないとかワケわからないということはないと思うけど、けっこう不親切というか、ある種の業界用語みたいなものについても特別な解説をしないままにガンガン話が進むので。でもわかる人には「わー」って感じでニヤニヤしちゃっておもしろすぎる、という感じの作品かと思いました。
 10歳前後から子役を始めた同じくらいの歳の女子3人、というには小池栄子はやはりひとりお姉さんに見えましたが、しかし上手いんだコレがまた。13歳時代もちゃんとそう見えるし、33歳の今の様子がまた、素の小池栄子ってこんな感じなのかなと思わせつつ絶対に違うんですよね多分、そういう業界人っぽさの演技が抜群に上手い。唸らされました。
 そしてテレビドラマ『お耳に合いましたら。』が印象的で、実は元・乃木坂アイドルだと私が全然知らなかった(ホントすんません)伊藤万里華のステージママ(池津祥子)つき子役っぷりが、またむちゃくちゃ上手いし今の引きこもりっぷりもめっさ上手くて、ホントどーなってるんだって感じです。すごい配役だなあ、役者に惹かれてきてよかったなあ!(例の覆面座談会なるもののに当て擦っております)
 というか真理恵のマネージャー役の後藤武範のロレツの回らなさが気になった以外は、みんなものすごく芝居が上手くて怖いくらいでした。この人も、演技はホントにいいんですよ。ナレーターも、オーディションを受けに来た女児をやっちゃうのも上手かったし、このマネージャーも、こういう人間ホントいそうってのがホント上手かった。ただ口が回っていなくて…呑んでるの? 口内麻酔でもしてるの? ってくらいだったのですが、あれが常態なのでしょうか…?
 まあでも、すごいのはやはり物語でしょう。以下ネタバレしますが、これは元トリプルキャスト子役の20年の盛衰とドロドロ…なんて話では全然なかったのでした。
『宝飾時計』のヒロインはトリプルキャストでしたが、相手役の男子は勇大(小日向星一)のシングルキャスト。ゆりかは彼と心を通わせ、仲良くなりますが、彼はやがて自殺してしまう。その死が信じられずお葬式にも行かなかったゆりかは、やがて公演終演後の30分だけイマジナリー勇大を楽屋に呼び出せる?ようになる。ゆりかは彼と会いたくて、成長を止め、周りの役者が入れ替わっても毎年子役として出演し続ける…そうは演出されていませんでしたが、むしろあどけなく微笑ましいもののように語られていましたが、しかしこれはほぼホラーでしょう。そしてそんなゆりかの前に、新たな現場マネージャーとして祐太郎が現れ、ふたりは恋仲になる。しかしゆりかがふたりの将来、つまり結婚をほのめかし迫っても、彼の方は「好き」の一言も理由をつけてなかなか口にしようとしない…
 実は祐太郎は、名前も顔も変えて現れた勇大で、勇大は海に身投げしたものの実は助かっていたのだ…というようなことのようです。実は明快な説明は作中にありませんでした。ゆりかは祐太郎の正体に気づきながらも、彼からの言葉が、説明が欲しくて、そのきっかけになればと『宝飾時計』二十周年記念公演に真理恵と杏香を呼んだのです。一方で、未だ少年の姿で現れる勇大に、もはや自分が作り出した幻想であり自分が想定した言動しか取らないとわかっている勇大に、話しかけることをゆりかはやめられないでいる。
「出会い直したかった」と語る祐太郎は、ゆりかに正体を知られてしまったので、また姿を消します。これはゆりかの物語なので、祐太郎の真意は語られません。私には、典型的なただの男に見えました。結婚から、将来から逃げる男の典型です。かつて、初日や千秋楽のお祝いの花を自宅に持ち帰っても世話しきれず枯らせてしまっていたから、枯らせず飾れるようなきちんとした大人になりたい…と言うのは、わかります。それは確かに大人のひとつのあるべき姿でしょう。しかし「いつか~したら」みたいな「いつか」なんて来やしないのです。男はちゃんとしてから、とか一人前になってから、などよく言いますが、そんな日は絶対に来ないのです。好きならまず一緒になって、一緒にちゃんとしていけばいいのです。でも、そういう覚悟がない。そして逃げる。男ってみんなそうです。
『宝飾時計』がどんなミュージカルなのかもまた語られませんが、そしてこの作品におけるこのタイトルの意味もまた明確には語られませんが、人生を時計に準えるなら、確かに女の人生には出産年齢という区切りがあります。子供を持ちたい、そういう将来のために結婚したいとなったら相手が要るのです。その相手が「いつか」とか言うのを待っていても、いつかなんて来やしないし、進む時間は止まらないのです。
 祐太郎がいなくなり、ゆりかは主題歌を歌い始めます。この舞台の主題歌であり、これが『宝飾時計』のメインテーマ曲なのでしょう。彼女は二十周年記念公演で歌い、その後も女優を続けて節目にリサイタルなどで歌い続けたのでしょう。絶唱の間に時は流れ、彼女は老境に達し、ついに倒れます。そこに現れたのはイマジナリー祐太郎であって、現実の恋人が戻ってきたわけではない。それでもゆりかは自分の人生は幸せだったと言うのかもしれないけれど、なんと残酷なオチなのか…と私は震えました。
 舞台奥には時計盤、舞台も時計盤を思わせる二重円の盆、置きっ放しの小道具が動かされたり盆が回ったりして場面展開していたのが、だんだん小道具が運び出されて何もなくなり、ゆりかと祐太郎だけの場所になる。でも本当はひとりなのでしょう。「私が考えてきた真実」が祐太郎の姿となって現れただけなのだから。それを妄執と呼ぶか恋と呼ぶかはたまた愛と呼ぶべきなのか、それは余人にはわからない。ゆりかがそう言うならゆりかは幸せに死んだということなのかもしれない、けれど実際に彼女が生きた年月はおそろしく孤独だったのではあるまいか…
 そんな、物語でした。

 杏香ママが元タカラジェンヌ設定なのも個人的にはもちろんツボでした。というか芸能界ものをやろうと思ったら宝塚歌劇要素って外せないんだろうな、と改めて気づかされました。また、ここの母娘の愛憎癒着も恐ろしいわけですが、男女の恋愛は男が逃げても母娘ならこうなる、という例かもしれません。それからすると真理恵が最も健全ということなのかもしれないし、これはそれを「無難」と言っている物語なのかもしれません。
 滝本プロデューサー(八十田勇一)のトレーナーのプロデューサー巻きとかもニヤニヤものでしたが、ああいう記号ってまだ通じるのかなあ…そしてホントこういう人間いる、って上手さなんですよ抜群に嫌な感じ含めて。イヤみんなホント達者でした。
 生バンドで、特にヴァイオリニストがほぼずっと舞台上にいていい仕事をしているのも印象的でした。そもそも始まり方からして、「ああ、そういう舞台ね」ってわからせてくれたもんね。ホント小気味言い演出、脚本でした。
 作家はプログラムで最近の芝居はわかりやすすぎる、説明が多すぎるみたいなことを語っていましたが、イヤイヤ今回もめっちゃ理屈っぽく説明していて過多で過剰でハンパない台詞量でしたけどね?とは思いました。でも余白も多い作品で、確かに観客のリテラシーも必要とされるものでした。その挑戦も受けて心地良かったです。演劇らしい演劇を観て、今年の良き演劇始めとなりました。






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綿矢りさ『生のみ生のままで』(集英社文庫上下巻)

2023年01月09日 | 乱読記/書名か行
 25歳の夏、逢衣は恋人の颯と出かけたリゾートで、彼の幼馴染みとその彼女・彩夏に出会う。芸能活動をしているという彩夏は、美しい顔に不遜な態度で不躾な視線を寄越すばかり。けれど4人でいるうちに打ち解けて、東京へ帰ったあとも逢衣は彼女と親しく付き合うようになる。そんな中、颯との結婚話が出始めたところに、ある日突然彩夏に唇を奪われて…女性同士の情熱的な恋を描く、第26回島清恋愛文学賞受賞作。

 デビュー時に話題になった作家さんですが、おそらく初めて読むかと思います。さすがにもういい歳なはずなので、この小説の文体が一人称スタイルだからとはいえあまりにもラノベチックなのは、あえて、わざと、ヒロインがそういうキャラだから、ということなんでしょうね。そうだと思いたい、でないとあまりにも、なんか、こう…ねえ?
 それはともかく、帯には「男も女も関係ない。逢衣だから好き。」という作中の彩夏の台詞や、「女性同士の性愛関係を描きながら、他ならないその特別な愛を追求する小説」だのという解説の一節が惹句に使われていて、今どきいかがなものかという感じなのですが、読み終えた私の感想は「フツーの恋愛小説だったな」ということでした。
 主役カップルがどちらも、これまでは異性と付き合ってきた女性だということもあるのかもしれませんが、相手が異性だろうが同性だろうが、惹かれ、近づき、でもとまどい、一度は離れたり、また惹かれ合い引き寄せ合ったりして理解を深め親しくなっていく…というのは同じだし、どんなに好きな相手だろうと初めて他人の身体と触れ合うときにとまどいがあるのもあたりまえで性別関係なく同じだと思うし、たとえいわゆる結婚適齢期の男女のつきあいであろうと周りの他人が余計な口出ししてくることも同じだな、と感じたのです。その異性愛と同じ「フツーさ」の描写がいいなと思ったし、けれど同性同士の恋愛の「フツーさ」をそう描いた創作物ってまだまだ少ないんだと思うので、存在を確認できたことが嬉しかったです。「別にそう特別なことではない、数は少ないかもしれないが特殊だったり異常なことではまったくない」というコンセンサスがそれこそ普通に取れる世の中になっていってほしいな、と改めて思いました。私はこの小説のキャラクターの誰も好きじゃないしリアリティーもない気がしますが、それでも、そのフツーさを支持します。




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