駒子の備忘録

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音楽座ミュージカル『21C:マドモアゼル モーツァルト』

2010年01月06日 | 観劇記/タイトルま行
 パルコ劇場、2005年8月3日ソワレ。

 モーツァルト(新妻聖子)の死後、35年を経た19世紀のウィーン。かつて宮廷楽長を務めたアントニオ・サリエリ(広田勇二)は自らの人生を振り返っていた。そこに時空を超えて未来の瓦礫の世界・21世紀の光景が浮かび上がる。「パパ!」と悲痛な叫び声をあげてうずくまる少女の姿は、18世紀を生きたひとりの少女、エリーザに重なって見える…原作/福山庸治、脚本・演出/ワームホールプロジェクト、音楽/高田浩・八幡茂、井上ヨシマサ。音楽座カンパニー解散から10年、新たに結成されたRカンパニーを創造母体にする新生音楽座ミュージカル第一回公演。91年初演版から舞台装置・美術を除き台本・音楽とも全面改訂。

 なんといっても主演の新妻聖子がめちゃくちゃ良かったです(少女時代のエリーザを演じた高塚恵里子も可愛らしかった…)。地声がのびやかで声量豊かでよく響いて音程が確かで歌詞がはっきり聴き取れて。ちっちゃくて元気でやんちゃで。男物の衣装を着ていても、張った腿のあたりから色気が漂う、まさしくエリーザベト・モーツァルトその人でした。
 対するサリエリ役の広田勇二も、原作の漫画から抜け出してきたようなビジュアルでしたねー。これまた歌唱力があってよかったです。聴き惚れました。
 コンスタンツェ(中村桃花)も愛らしかった。それからフランツ(丹宗立峰)がすごく好青年で誠実そうで朴訥で、なんかツボでした。

 では何が不満だったかというと、初演版を知らないので比べられませんが、「21世紀」の取り入れ方、かな。父親の庇護を得られず銃弾に倒れて死ぬ戦地の少女のあり方と、18世紀に天才に生まれたがために男装して生涯を生きなければならなかったエリーザのあり方、というのは、重なるところなんて実はなんにもないのでは? どうにもこのシーンは唐突でしたし、別に戦争の悲惨さを訴えるでもなく反戦を謳うでもなく、爆撃音がうるさいばかりでほとんど不愉快でした。パンフレットにも4ページにもわたって出演者に戦争について対談させているところを見ると、もともとそういう志向のある団体なんでしょうか。モーツァルト生誕の年は確かにまた七年戦争勃発の年でもあるのですが、原作漫画にも特に戦争の色はなかったと思うし、この趣向が私にはどうしても解せませんでした。
 そうそう、展開がかなりスピーディーだったのも、もしかして原作漫画を読んでいない人にはややわかりづらいのではないかと、ちょっとヒヤヒヤしてしまいました。
 あと、父親が死んでエリーザがやっと男装を捨てたときの、ドレスがしょぼくて泣けました。ここは演出的にも絶世の美女になる必要があったと思うので、もっと粋なデザインのドレスを着せてほしかったです。あと胸をもっと強調するべき! ここで女装の少年に見えてしまっては意味がないのですから。そういえば新妻聖子は素顔の写真の方が美人で、どうもお化粧があまり良くなかった気がします。男装していても美少年に見えた方がモーツァルトっぽいと思うので、もう一工夫してほしかったなあ。もったいない…
 なんだってこうネチネチ語るかと言いますと、原作の漫画は青年漫画で、今、舞台でこの作品をやるとしたら、もっと少女漫画的な、もっとフェミニズム的なもっていき方があったのではないかなーと、思ってしまったからです。終演後、「もっとサリエリとからんでほしかった」との声がロビーで聞かれましたが、端的に言ってそういうことです。サリエリはホント、思っていたより出番が少なく、あまりこのふたりのラブストーリーの構造になっていなかったのが、これまたなんだかすごくもったいなく思えたのです。
 父にも姉にもない天才を与えられてしまった少女。時は18世紀、女にはその才能を生かす場所が与えられていない時代(そしてそれは21世紀においてもほとんどまだそうだと言っていい)。男装し、喝采を浴び、居場所を得る「天才」。父を愛し尊敬し、だけど反発して故郷から大都会へ出た「少年」。それがエリーザベト・モーツァルトの姿で、才能はともかく何がしかの志がある現代女性が実に仮託しやすい存在です。原作の彼女は、乳房がついているだけで中身はほとんど男性同然でした。それは原作が青年漫画だったからかもしれないし、天才とはそういうある種性別を超越した存在だと作者が考えていたのかもしれません。けれど舞台のエリーザは女優によって演じられますし、舞台の観客は主に女性です。女性性がより強くなって当然なのではないでしょうか。それでこそ、モーツァルトの真実の姿により近づくことになるのではないかと思うのです。
 だいたい原作では、何故エリーザがコンスタンツェと結婚するのか、少なくとも私にはよくわかりませんでした。とっても気の合う女友達だったから? 多少は歌も歌うコンスタンツェがミューズだった? 本来なら自分がそうなっているであろう「娘」の姿をしたコンスタンツェへの愛憎? そういったものを、より深く考えて演出してみる手だってあるのではないでしょうか。この女同士の友情、共闘には実に興味深いものがあるはずです。
 それから、サリエリへの慕情。父に反発してウィーンに出てきたエリーザが出会った年上の男性、それがサリエリで、彼女は彼を「パパ」と呼びます。そこには明らかにファーザー・コンプレックスがある。恋愛以前です。そして彼女は父親が死ぬまでは男装を止めなかった。父親が死んで初めて、彼女はドレスを着、「ヴォルフガングの従姉妹」としてサリエリに会い、求愛されます。何故彼女はそれに応えなかったのか? 作曲にふたたび専心するようになった理由は? ホント言うとここらへんも原作では未消化だと思います。ここに恋は在ったのかどうか? つっこみ所だと思うのですが。
 そしてもうひとつ、ナンネルです。『モーツァルト!』でも、「神童」として同じようなスタートを切ったのに、真に天才でかつ男であった弟はどんどんと脚光を浴びていき、自分は「20歳すぎたらただの人」になってしまい、家族の世話に精一杯で婚期にも遅れて落ち込むようなナンネルの姿に、私はずいぶんと胸つかれました。まして同性の妹だったら!!
 モーツァルトは困窮のうちに若死にし、死んで初めてサリエリにお姫様抱っこされて舞台を去る。これはかなり女性観客の涙と感動を誘う作りになると思うんだけどなー。女が天才に恵まれるとろくなことにならない、天才は幸せになれない、とかいうことを言いたいんじゃないですよ? 彼女はたまたまこうとしか生きられなかった、というように見せたいですね。時代ゆえか、あまりにも偉大なる天分ゆえか。彼女ほど天分に恵まれてはいない我々であっても、まだまだ生きにくいことは確かなこの世の中で、私たちはどうしたらいいのだろう…というような想いが漂う中に、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が流れる…というのは、せつないと思うのですが、いかがでしょうか…
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