その②のつづきです。
◆絆か呪縛か。
本作の最大のテーマは、“家族”でしょう。
311の震災の後、やたらと“絆”という言葉が世間に氾濫し、“家族の絆”がフォーカスされていたように思います。あれが、私には、鬱陶しくて仕方がなかった。家族が絆などではなく“呪縛”だった人間にとっては、ああいうポエム調のセンチメンタリズム、例えばNHKの「花は咲く」なんてのは鬱陶しい以外の何ものでもないのですよねぇ。特に、有名人たちが、なぜかガーベラを一輪両手で胸の前に持って、哀しげな顔をして歌う演出など、言っちゃ悪いが、あれこそ一種の「感動ポルノ」ならぬ「震災ポルノ」だろうと思っちゃう。24時間TVのことをよく言えたものだと、正直思いましたね。
心底感動している人や励みになっている人もいるんだから、それはそれで良いのでしょうけれど。でも、あの映像のセンスは、やっぱり救いようがないくらいに悪いと思う。
、、、それはともかく、家族に苦しんでいる人・苦しんだことのある人は、私に限らずもの凄く多いと思います。他人なら苦しまない。離れれば良いのだから。でも、家族はそうはいかない。絆という名の呪縛があるからこそ、苦しい。そして、たとえ呪縛であっても、それが解けることもまた苦しい。進むも地獄、退くも地獄、それが家族・血縁のなせる業。
結局、本作は、シモーネやロッコのように家族が呪縛になってしまう人と、チーロみたいにゆるい絆を維持して我が道を行く人と、ヴィンチェンツォのように呪縛も絆もなく個を大事にする人と、同じ兄弟でのそれぞれの家族との距離の取り方を描いているとも言えるかも。
家族、、、この言葉ほど、人によって受けとめ方の異なるものはないかもですね。ヴィスコンティにとっては、因果なものだったのかも。
◆パロンディ家は本当に崩壊したのか?
ヴィスコンティ作品には家族の崩壊を描いたものが多いと言われていて、本作もその一つだそうですが、、、。パロンディ家は本当に崩壊したのでしょうか?
私は、そうでもないような気がしました。ストーリーは悲劇的ですが、この後のことをちょっと想像してみると、、、。チーロは恋人と家庭を持つでしょう。子が自立して親元を巣立っていくのは当然のことで、別に崩壊でも何でもありません。
問題は、シモーネとロッコですが、、、。私は、母親とこの2人の息子と末っ子ルーカは、南部に戻るのではないか、という気がします(借金はどーすんだ? という問題はありますが)。この2人の息子は、ミラノという都会に馴染めなかったが故に、苦しんだわけです。母親としては、シモーネは牢屋、幼いルーカの面倒をたった一人で都会で見続けるのはかなり難しいと思われます。なので、恐らくはロッコがそれを支えるのだろうけれど、それもシモーネが牢屋から出てくるまでの話。そして、南部の地で、ルーカが新たなパロンディ家の礎となるのではないかな、と。
なぜそう考えたか、というと、ロッコはパーティの席で、故郷のことを懐かしんで語り、「故郷に帰りたい」とハッキリ言っています。シモーネも多分同類、、、だからあんなんになっちゃったんだと思う。そして、ルーカは、「ロッコが帰るなら自分も帰る」と言っています。シモーネとロッコは、ミラノでは生き続けられず、ロッコを慕うルーカはロッコと行動を共にする、、、のではないかな、と。
なので、本当にパロンディ家が崩壊してしまったわけではないと思うのです。いくらイタリアの家族が濃いからといって、形はどうあれ、子はいつかは巣立つもの。真に家族が崩壊するというのは、皆がてんでバラバラになって、互いに消息も知れない、知っていても接触しない、、、という状態になることではないでしょうか。緩くでも、極細くでもつながっている以上、それは崩壊ではなく、変化に過ぎないと思うのですが。
◆ヴィスコンティ映画
で、映画友の言葉に対してですが、、、。
正直なところ、本作を見ただけでヴィスコンティの本質が分かったとは到底思えませんし、逆に言えば、私のこれまでのヴィスコンティ評が大きく覆ることもなかった、と言えましょう。
映画作り、という側面から見れば、やっぱり、ヴィスコンティの作品は、意味がよく分からないシーンがかなりあります。
例えば、シモーネがジムの支配人(?)の男性に金の無心に行き、その支配人の部屋でのシーン。テレビに絵画が映っていて、支配人が途中でテレビを消すんですけれど、、、。その絵画ってのが、どれもこれも裸の人間のなんですよねぇ。これって、、、?? もしかして、シモーネと支配人の関係の暗示?? とか。、、、分からん!!
ナディアがシモーネに殺されるシーンも分からない。シモーネにぐさぐさと刺されながらも、ナディアは「死にたくない~~!」と絶叫。でもそれまでは彼女は「もう死にたい」と散々言っていた。、、、んん~、いざ死に直面して、生への執着心が湧いたのか?? とか。
別に、全てのシーンを理解できなくてもいいけど、なんだかなぁ、、、というのは、やっぱり本作でもありましたねぇ。観客の想像力に委ねる、って感じの分からなさじゃない所が好きになれない、というか。「これ分かる?」と試されているみたいな。
まあ、映画友はヴィスコンティLOVE
なので、今度、逆に、ヴィスコンティの何がそんなに魅力だと感じているのか、じっくり聞いて来たいと思います。聞けば、少しはなるほど、と思える部分もあるかも知れませんし。
★★ランキング参加中★★
◆絆か呪縛か。
本作の最大のテーマは、“家族”でしょう。
311の震災の後、やたらと“絆”という言葉が世間に氾濫し、“家族の絆”がフォーカスされていたように思います。あれが、私には、鬱陶しくて仕方がなかった。家族が絆などではなく“呪縛”だった人間にとっては、ああいうポエム調のセンチメンタリズム、例えばNHKの「花は咲く」なんてのは鬱陶しい以外の何ものでもないのですよねぇ。特に、有名人たちが、なぜかガーベラを一輪両手で胸の前に持って、哀しげな顔をして歌う演出など、言っちゃ悪いが、あれこそ一種の「感動ポルノ」ならぬ「震災ポルノ」だろうと思っちゃう。24時間TVのことをよく言えたものだと、正直思いましたね。
心底感動している人や励みになっている人もいるんだから、それはそれで良いのでしょうけれど。でも、あの映像のセンスは、やっぱり救いようがないくらいに悪いと思う。
、、、それはともかく、家族に苦しんでいる人・苦しんだことのある人は、私に限らずもの凄く多いと思います。他人なら苦しまない。離れれば良いのだから。でも、家族はそうはいかない。絆という名の呪縛があるからこそ、苦しい。そして、たとえ呪縛であっても、それが解けることもまた苦しい。進むも地獄、退くも地獄、それが家族・血縁のなせる業。
結局、本作は、シモーネやロッコのように家族が呪縛になってしまう人と、チーロみたいにゆるい絆を維持して我が道を行く人と、ヴィンチェンツォのように呪縛も絆もなく個を大事にする人と、同じ兄弟でのそれぞれの家族との距離の取り方を描いているとも言えるかも。
家族、、、この言葉ほど、人によって受けとめ方の異なるものはないかもですね。ヴィスコンティにとっては、因果なものだったのかも。
◆パロンディ家は本当に崩壊したのか?
ヴィスコンティ作品には家族の崩壊を描いたものが多いと言われていて、本作もその一つだそうですが、、、。パロンディ家は本当に崩壊したのでしょうか?
私は、そうでもないような気がしました。ストーリーは悲劇的ですが、この後のことをちょっと想像してみると、、、。チーロは恋人と家庭を持つでしょう。子が自立して親元を巣立っていくのは当然のことで、別に崩壊でも何でもありません。
問題は、シモーネとロッコですが、、、。私は、母親とこの2人の息子と末っ子ルーカは、南部に戻るのではないか、という気がします(借金はどーすんだ? という問題はありますが)。この2人の息子は、ミラノという都会に馴染めなかったが故に、苦しんだわけです。母親としては、シモーネは牢屋、幼いルーカの面倒をたった一人で都会で見続けるのはかなり難しいと思われます。なので、恐らくはロッコがそれを支えるのだろうけれど、それもシモーネが牢屋から出てくるまでの話。そして、南部の地で、ルーカが新たなパロンディ家の礎となるのではないかな、と。
なぜそう考えたか、というと、ロッコはパーティの席で、故郷のことを懐かしんで語り、「故郷に帰りたい」とハッキリ言っています。シモーネも多分同類、、、だからあんなんになっちゃったんだと思う。そして、ルーカは、「ロッコが帰るなら自分も帰る」と言っています。シモーネとロッコは、ミラノでは生き続けられず、ロッコを慕うルーカはロッコと行動を共にする、、、のではないかな、と。
なので、本当にパロンディ家が崩壊してしまったわけではないと思うのです。いくらイタリアの家族が濃いからといって、形はどうあれ、子はいつかは巣立つもの。真に家族が崩壊するというのは、皆がてんでバラバラになって、互いに消息も知れない、知っていても接触しない、、、という状態になることではないでしょうか。緩くでも、極細くでもつながっている以上、それは崩壊ではなく、変化に過ぎないと思うのですが。
◆ヴィスコンティ映画
で、映画友の言葉に対してですが、、、。
正直なところ、本作を見ただけでヴィスコンティの本質が分かったとは到底思えませんし、逆に言えば、私のこれまでのヴィスコンティ評が大きく覆ることもなかった、と言えましょう。
映画作り、という側面から見れば、やっぱり、ヴィスコンティの作品は、意味がよく分からないシーンがかなりあります。
例えば、シモーネがジムの支配人(?)の男性に金の無心に行き、その支配人の部屋でのシーン。テレビに絵画が映っていて、支配人が途中でテレビを消すんですけれど、、、。その絵画ってのが、どれもこれも裸の人間のなんですよねぇ。これって、、、?? もしかして、シモーネと支配人の関係の暗示?? とか。、、、分からん!!
ナディアがシモーネに殺されるシーンも分からない。シモーネにぐさぐさと刺されながらも、ナディアは「死にたくない~~!」と絶叫。でもそれまでは彼女は「もう死にたい」と散々言っていた。、、、んん~、いざ死に直面して、生への執着心が湧いたのか?? とか。
別に、全てのシーンを理解できなくてもいいけど、なんだかなぁ、、、というのは、やっぱり本作でもありましたねぇ。観客の想像力に委ねる、って感じの分からなさじゃない所が好きになれない、というか。「これ分かる?」と試されているみたいな。
まあ、映画友はヴィスコンティLOVE

正月早々、凹みました。
★★ランキング参加中★★

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます