映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

わらの犬(1971年)

2016-07-26 | 【わ】



 アメリカでの暮らしに嫌気のさした宇宙数学者のディヴィッド・サムナー(ダスティン・ホフマン)と、妻エイミー(スーザン・ジョージ)は、エイミーの故郷であるイギリスの片田舎の村に引っ越した。

 これで、穏やかに研究に打ち込めると思っていたディヴィッドだが、田舎ゆえのムラ社会的な人間関係や風土と、自らの信念である非暴力主義の相互作用により、だんだんと村人たちから侮られ、嫌がらせをされるようになる。非暴力主義のディヴィッドはやり過ごしていたのだが、そんなディヴィッドにエイミーは次第に不満を募らせ夫婦の関係も微妙に悪くなって行く、、、。

 ある日、ディヴィッドとエイミーは、教会の催し物からの帰り道、精神障害を持つ村の男ヘンリーを車で轢いてしまう。慌てた夫婦は自宅にヘンリーを連れ帰る。が、ヘンリーは、少女を誘拐したと誤解されて村のならず者たちに追われている身だった。ディヴィッドの家にヘンリーがいると知ったならず者たち5人が、ヘンリー奪還のためにやってくる。

 恐れをなしたエイミーは、ヘンリーをならず者たちに引き渡すようディヴィッドに懇願するが、非暴力が信条のディヴィッドはそれを拒否。ならず者たちを我が家へ一歩たりとも入れるものかと、徹底抗戦に打って出る。

 そして、遂にディヴィッドが……っ!!

 (いつものリンク先であるWalkerは、あらすじに明らかな間違いがあったので、今回はWikiにしています)


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 なんと、今さらですがペキンパー作品デビューです。あんまし興味なかったというか、、、食わず嫌いだったというか、、、。TSUTAYAでレアものだったので、リストのトップに置いておいたら、タイミングが良かったのか送られてきましたので、見てみました、、、。


◆怒りを表すことが恥だと思っているディヴィッド

 普段、周囲から嘲りの対象だった人物が、ろくに抵抗も見せずに内心は怒りのマグマを最大限まで溜めた挙句に暴発する……、ってこれは、あの「津山30人殺し事件」と構図は同じじゃないですかねぇ。暴発の仕方がちょっと違いますけど。理不尽に対する怒りは、ある程度はきちんと感情として表出させ解消していかないと大変なことになります、という典型で、本作もまさにそれを描いた映画です。

 まあ、ただ、困ったことに、本作のデイヴィッドもそうだけど、こういう人たちは大抵、自分の感情を自覚できていない、言語化して認識できていないんではないかと思われるんですよね。理不尽なことをされてモヤモヤした感情はあるけれどもそれが怒りだと認識できない、あるいは敢えて認識することを避けている。怒りを制御することは往々にして難しいわけで、特に、デイヴィッドは怒りを表すことを恥だと思っている節もある。なぜなら彼の信条は非暴力であるから。怒りを相手に伝えることは恥でも何でもないのにね。

 そして、ある時、その怒りが臨界点に達すると、彼らは自分の感情を言語化して向き合うというステップを難なく飛び越えて、一気にとんでもない暴力行為に訴えて表出させるという、その飛躍が大き過ぎて、一般凡人の理解を超えてしまうのです。

 デイヴィッドは、あの精神障害者のヘンリーを守る使命感に駆られてラストで暴発したわけではもちろんなく、ヘンリーはトリガーに過ぎず、自らの信条に意地になってしがみつくことで、アンコントロール状態に陥っちゃったんでしょうねぇ。インテリに多い気がするんですが、自分の信条を非常事態に陥っても貫こうとする、いや、貫かねばならないという融通の利かなさ。

 ま、自分にきちんと向き合ってこなかった、自分の気持ちを自分できちんとケアしてこなかった、もっと言えば、自分を大切にしてこなかったことによる、当然の帰結でしょう。

 おまけに、ディヴィッドが何度も口にする「ここはオレの家だ」が、さらに彼の人間性を矮小化させて見せるのです。自分の縄張りをほんの少しでも侵した相手を過剰に攻撃する、ヌマチチブみたいなディヴィッド。なんか哀しい。

 とはいえ、あの状況で、どうすれば良かったのか、、、。ヘンリーをならず者たちに引き渡せばよかったのか。なぜ、ヘンリーを家に連れてきてすぐに警察か救急車を呼ばなかったのか、という疑問が残るわけですが。やはり、こうなる前に、ならず者たちにナメられないようにその場その場で手を打っておくべきだった、、、ということなんでしょうけれども。

 私だったら、そもそもヘンリーを家に入れる前に夫に全力で抵抗するかなぁ。エイミーが嫌がるのはよく分かる。でも、入れる段階で夫に嫌だと言わないと、入れちゃってからイヤだって言ったって、外に出す方が難しいよ。こうなったらもう手遅れよね。


◆ヌマチチブと化したディヴィッド

 かくして、ディヴィッドの壮絶な闘いが始まるのですが、火事場の馬鹿力じゃないけど、彼のどこにあんな力があったのか、もうRPGのように、軟弱主人公キャラが弱っちい武器を駆使してならず者たちを一人また一人と倒していく、、、。

 その倒し方が実にディヴィッドのキャラを物語っている。ちまちましていて、理詰めで動く。逃げ出そうとする妻も許さない。なわばりを侵すもの許すまじ!! とばかりに、みみっちいながらも、確実に目的を一つずつ果たしていくあたり、もう、ディヴィッドがチチブに見えて仕方なく、恐ろしい暴力シーンにもかかわらず、なんだか苦笑が浮かんでしまいました、、、。

 ヌマチチブは、ハゼ科の小魚で、ものすごい排他性の強さが特徴です。その侵略者に対する過剰な攻撃は、魚とはいえ憎たらしいというか、まるで可愛げを感じられないのです。

 ダスティン・ホフマンの小柄で唇の薄い顔立ちがまた、いっそう、チチブを連想させ(顔が似ているということではなくて)、もう、早く終わってくれ!!とさえ思っちゃいました。


◆セックスのためだけに配された女の役

 まあ、秀逸な作品だろうとは思いますが、正直、見終わって、何とも言えない憤慨を覚えたのも事実ですね。何でかなぁ、としばらく考えたのですが、多分、女性の描き方が気に入らないんだと思います。

 ストーリーに絡む女性は、ほぼエイミー1人。あとは終盤、ジャニスがヘンリーを誘惑するくらいですね。エイミーはほとんどセックスを体現した存在で、彼女はストーリーにほとんど影響を与えていないどころか、ただただ、男たちの性的欲求の対象としてしか描かれていない。しかも、研究に集中したい夫に相手にされないと自分を持て余して、自分をレイプした相手に自分からしがみついて行くという、とにかく、回りの男もエイミー自身も“セックスのためだけにいる女”という認識なわけです。彼女が主体的になって動く展開はまるでナシ。

 演じているスーザン・ジョージ自身が魅力的なので見られますけど、エイミーという女性はまるで魅力がない人物像です。こんな妻だったら、ディヴィッドでなくても、早晩飽きるでしょう。

 むしろ、出番はちょっとだったし、最後は殺されちゃうジャニスの方が、本作ではキーマンですよねぇ。彼女がヘンリーを誘惑したから、終盤の惨劇が起きたわけですから。


◆ダスティン・ホフマン

 ダスティン・ホフマンという俳優を、私はあまり好きじゃないし、本作を見てもそれは変わらないけど、ディヴィッドはハマり役だったのではないでしょうか。ディヴィッドが、大柄でイケメンだったら、そもそも、あんなならず者たちもおいそれとエイミーを狙ったりはできないでしょ。

 やっぱり、人間、押し出しって大事ですよね、残念ながら。

 

 



ノーブラにセーター一枚で外を歩ける感性が同じ女性として理解不能。




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