平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「欧米回覧私記」を読む 3
午前中、町内のSTさんが、ブログをまとめた、「解読 竹下誌稿」という、300ページもの、自家製の本を作って、持ってきて下さった。ブログで解読が終って、三日しか経っていない早業である。本を手元にして、一年と二ヶ月弱、よくこれだけの量を解読したものだと、改めて思った。STさん、ありがとうございました。この後、図書館などに入れるらしく、今月中に校正をと頼まれた。終わったばかりで、やや食傷気味で、いまは勘弁してほしいところである。
午后、掛川の娘に、えまの誕生祝いを届けた。もう6歳、この春から小学生である。月日はどんどん経って行く。
夕方、OAさんに電話して、公民館行事での講演を頼んだ。自分が公民館に提案して、来年度に実現することになった。日程を8月23日(金)の午前中に決める。まだ半年先であるが、何とか最低でも100人は集めたい。一度、岡部さんとは、じっくりお話がしてみたいと話した。
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「欧米回覧私記」の解読を続ける。
明くれば、十一月四日の当日の朝まだきに、かの品々の届きたれば、開きてこれを視るに、五、七年の爾来は、丑事多端の折りなれば、かの祭りも絶え居りしにや。烏帽子の紐など、蟲に喰い切られ、紙縒(よ)り尓て、結び合わせたる所などあり。また衣裳(いしょう)たる素袍(すおう)にて、大口の袴ども、その古び、垢つきたる様、何となく昔日を思ひ出して、あわれを覚ゆる比(たぐい)なり。
※ 爾来(じらい)- それからのち。それ以来。
※ 丑事(ちゅうじ)- 不祥事。スキャンダル。
※ 大口の袴(おおぐちのはかま)- 武家が直垂の袴の下につける下袴。
さりながら、さし係りたることなれば、如何(いかん)ともなすべき術(すべ)もなく、下着はかの糸織の𥿻(きぬ)を着け、その上に素袍(すおう)を着し、散髪頭に(この頃は、髪を束ねて、紫の紐などにて、飾りしもの多かりき)烏帽子を冠(かむ)り、寒き時節ゆえ、またその上に鳶合羽を着し、日寄下駄をはき、人力に乗りて出かけたり。この有様を今より思えば、誠に無礼(ぶれい)にて、恰(あたか)も貧乏なる公家、若しくは、神主の出立ちの如くなりき。
※ 鳶合羽(とんびがっぱ)- 防寒、防雨兼用の外套で、男子が
用いる黒ラシャのもの。
※ 日寄下駄(ひよりげた)- 日和下駄。晴天の日にはくのに
向いた、歯の低い差し歯の下駄。
※ 出立ち(いでたち)- 装い。身なり。身支度。
神祇省においては、その頃は西の丸下にてありき。暫く、休息所に休みしが、時刻なりとて、神前に参拜せよとの差図に任せ、直ちに行かんとせしが、例の合羽はさすがに神前には無礼ならんと思いたれば、これを脱ぎて休息所に差し置き、先ず前門を入らんとせしに、他の人々は皆なこの前門にて、刀を脱し、これを供のものに渡し、清き草履を着けかえて入れり。
かくする事の礼儀なることは、余もまた全く知らぬにもあらねど、また斯くまでに、厳重にもあるまじと思いしなり。されど、ここまで来たれる事なれば、まゝよ、行かるべき処まで、行きて見んと、刀も差したるままにて、この門内に入りけり。先ずあちこちと見廻すに、左側には、太政大臣、その他、神祇官の官吏、弾正台の出張り(でばり)あり。右側は、則ち、遣外国使、岩倉右大臣、始め、木戸、大久保、伊藤、山口の副使などなり。
※ 弾正台(だんじょうだい)- 明治二年(一八六九)太政官制下に設置された警察機関。同四年、司法省に合併。
やがて、その前を通らんとせしに、弾正台の吏員、早くも余が下駄履き、帯剣のまゝなるを見咎(とが)め、大声を揚げ、御門内神前、下駄、帯刀、相成らず、扣(ひかえ)られよ、と言えり。止むを得ざれば、復(ま)た中門外に出でて、剣を捨て、下駄を脱し、足袋のまゝにて、再び入門せり。我すら、怪しき風体(ふうてい)と思いし事なれば、他に見る人々には、さこそおかしき事ならめと思えり。(中略)
読書:「西国巡礼」 白洲正子 著
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「欧米回覧私記」を読む 2
午前中、牧之原市の「はりはら塾」の発表会見学に金谷宿大学の本部及び事務方の人達と行く。場所は相良総合センター「いーら」、見学は一昨年に次いで2度目である。前回、大変なにぎわいで驚いた記憶があるが、今日はそれほどでもなかった。
見学後、事務方と少しお話した。こちらからの一方的な質問になって恐縮であったが、ストレートに答えて頂いた。口座数180余、受講者1200人余で、何れも金谷宿大学よりも多い。発表会の賑わいも金谷宿より賑やかに感じた。元は発表会の日にのみ、来年度の受講受付を先着順で行っていたが、今年から受講受付を今月中とし、受講者が多人数の場合は抽選と変えたという。どうやら賑わいの一部は、先着順の受講受付の人達だったようだ。あの賑わいがかえって混乱を呼び、今年は混乱の回避をねらったのだと聞いた。色々参考になった。
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「欧米回覧私記」の解読を続ける。
出立も近きにある由なれば、俄かに行李よ、洋服よとて、四方に奔走して、漸くに行旅の装を為せり。余、この時は神田橋外の南校の官舎に住居せり預(与)かる。貯えたる洋書などは、皆な知る人に分ち与え、衣服なども人に与え、或は本宅へ送りなどして、夫々、方付(かたづ)けたり、
※ 行旅(こうりょ)- 旅をすること。
かくの如く出立の用意、略(ほぼ)調いて、その日を待ち居りける処に、俄かに十一月三日の夜になりて、「明四日、神祇省に於きて、遣外国使祭あり。因って遅滞なく参省せよ。また衣服は烏帽子、直垂(ひたたれ)を著(つ)くべし」とあり。余は、直垂は勿論にして、並みの衣服さえ、皆な夫々に片付けて、糸織のぬのこ壱枚ならでは、持ち合わせなければ、明日は程よく所労の届けして、免がるべしと思いしに、
※ 糸織(いとおり)- 絹の縒り糸で織ること。また、その織物。
※ ぬのこ(布子)- 木綿の綿入れ。
※ 所労(しょろう)- 病気。わずらい。
その筋の人の云えるに、「出船も両三日の中なるべし。然るを、今俄かに病気と申さんは、誠に場合悪(あ)しかりなん。ちと見苦しくも厭(いと)い給わずば、幸いに近頃文部省の管轄となりし、昌平橋外の聖堂に、釈奠(しゃくてん)に用うる装束あり。取り寄せて進(まい)らすべし」と、いと親切なる言葉に、無為(むい)に否(いな)まんもさすがなり。さらばと言いて頼みたり。
※ 釈奠(しゃくてん)- 陰暦二月・八月の上の丁の日に、孔子と孔門十哲の画像を掲げてまつる儀式。
※ 無為(むい)- 何もせずにいること。
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「欧米回覧私記」を読む 1
午后、「古文書に親しむ」講座に行く。今年も残り一回となり、教授三年目も終える。今日、次年度の教材の最初の部分を渡す。
ブログの次の解読テーマを、「欧米回覧私記」とした。但し、半月ほどで読み終える短いものである。
明治四年、岩倉使節団が欧米に派遣された。アメリカ合衆国から、ヨーロッパ諸国に廻る大使節団で、帰国までに2年近くかかった。岩倉具視を正使として、明治政府の首脳陣や、留学生を含む総勢107名で構成された。公式の記録は「米欧回覧実記」として出版されてもいる。当該文書は、近藤鎮三という随行員が残した、私的な手書きの記録で、旅のうち、アメリカ到着までの抜粋である。
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欧米回覧私記 近藤鎮三
畏(かしこ)くも、我が明治天皇陛下は、復古の大業成りしを以って、条約各国とはその交際の愈(いよいよ)親密ならんことを望ませ給い、明治四年を以て、外国卿たりし岩倉具視(ともみ)、子を右大臣に進め遣(つかわ)し、外国特命全権大使に任じ、各国を巡回せしめ給えり。但し、大使の号は、万国交際法の上にては、国君の名代として取り扱わるゝ、最貴重の役目なりとす。
また我が政府は、常時諸省の官吏中、俊秀の士を撰びて理事官となし、大使に随行せしめ、到る処に於いて、その制度・文物を見聞し、その良法を携(たずさ)え帰りて、これを我が国に試みしめんとせり。文部省よりは田中文部大丞(だいじょう)、その選に当り、余もまた、幸いにその随行員を命ぜられき。
大使の一行は、則ち、正使岩倉具視、副使木戸参議、大久保大蔵卿、工部大輔(たいふ)伊藤博文、山口外務少輔(しょうゆう)なり。また書記官には、福地、何(が)、田辺、小松、渡部、林、長野、川路、池田、安藤、久米、随行野村なり。理事官には、佐々木司法大輔、東久世侍従長、山田少将、田中(光顕)大蔵大丞、中山、安場、五辻、内海なり。この外、随行員には、原田陸軍兵学校大教授、若山、沖、阿部、杉山、富田、長与、大島、及び余など、弐十一人なり。
※ 省の四等官 - 卿、大輔・少輔、大丞・少丞、大録・少録
余のこの行を命ぜられたるは、明治四年十月廿二日なり。その節は、未だ西ノ丸炎焼前にて、太政官は同処にありき。弁官にてありつらん、烏帽子(えぼし)、素袍の装束せし人、左の書を授けられたり。
※ 西丸炎焼 皇居西の丸焼失は、明治六年(一八七三)。
※ 弁官(べんかん) - 令制における太政官内の要職。
※ 素袍(すおう) - ひとえ仕立ての直垂。平士・陪臣の礼服。
近藤鎮三(やすぞう)
今般、田中(不二麿)文部大丞、欧米各国へ理事
官として、差し遣し有るに付、随行申し付け候事。
明治四年十月廿二日 太政官
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「竹下村誌稿」を読む 397 古文書 10
午后、外を見ると自宅そばの電線に、何百羽ものムクドリが集結しているのを見た。よく見る光景だが、自宅にこんなに近いのは初めてである。その一部をアップしてデジカメにおさめた。
ムサシが逝って七日目、人なら初七日である。一日、明日の「古文書に親しむ」講座の下調べに暮れる。
一年二ヶ月近く、「竹下村誌稿」の解読を続けてきたが、今日で最後となった。了解が得られれば、いずれ皆さんに見易い形にしたいと思っている。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。人名辞書より、沢庵の項の続き。
居ること四年、幕府その老を憐れみて、これを召喚し、尋(つい)で、洛寺に帰らしむ。上皇、沢庵を召す。沢庵、仙宮に入りて玄談し、洛を辞して但山(但馬)に淵潜す。明年また台命を承けて山陰を出ず。一日将軍、沢庵及び玉室を江戸城に召して、宗門の旨意を問う。沢庵応対して皆な旨に称(たた)う。これより、屡(しばしば)城内に侍して、仏祖の言教を敷演し、恩遇甚だ渥(あつ)し。
※ 仙宮(せんきゅう)- 上皇の御所。
※ 玄談(げんだん)- 経論を講ずる前に、題号・著者・大意など、その経にまつわる深義を説明すること。開題。
※ 淵潜(えんせん)- 奥深く隠れる。
※ 台命(たいめい)- 貴人の命令。
※ 旨意(しい)- 考え。意図。
※ 言教(ごんきょう)- 仏が言葉によって説き示した教え。
※ 敷演(ふえん)- のべひろげること。敷衍。
※ 恩遇(おんぐう)- 情け深いもてなし。厚遇。
戊寅中(寛永十五年、1638)、沢庵、洛に赴く。上皇、国師号を賜う。沢庵固辞して受けず。因って奏して、大祖正眼禅師に国師号を賜わらんことを請う。上皇その言を嘉(よみ)して、乃ち大現国師を賜う。
※ 大現国師(たいげんこくし)- 徹翁義亨(てっとうぎこう)。鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧。大徳寺1世。大祖正眼禅師と諡(おくりな)され、のち沢庵の奏により、天応大現国師と追諡された。
寛永十五年(1638)、幕府地を武州品川に相して、新たに巨刹を創し、山を萬松と云い、寺を東海と云う。明年、幕府沢庵を請じて第一世となす。沢庵また偈を作りてこれを慶す。一日台駕、寺に入りて和歌高製あり。沢庵また和歌を題して、新寺の遠大を祝す。酒井忠勝、長松院を創し、堀田正盛、臨川院を創し、細川光高、妙解院を創し、小出吉観、雲竜院を創し、皆な東海の境致と為す。将軍また邸館を江戸に賜いて、栖止休息の処となす。構営甚だ荘厳なり。晩に、東海寺中に春雨庵を建てて、これに隠す。春翁また暮翁と号す。
※ 台駕(たいが)- 高貴な人を敬って、その乗り物をいう語。
※ 境致(きょうち)- 禅宗寺院では禅宗の自然観にもとづき、周囲の自然環境を尊重して、これと伽藍との総合的な景観美を「境致」という言葉で表現し、大伽藍から小禅院まで、寺の内外の景観を構成する山や池および諸堂を境致に数えた。
※ 栖止(せいし)- 身を寄せる,仮住まいをする。
※ 構営(こうえい)- 家屋のかまえ。
正保二年十二月十一日、病みて死す。年七十三、道俗弔賻し、衆、歎惜す。沢庵兼ねて筆画俳諧に名あり。また小堀政一に茶道を学ぶ。而して、今日用うる所の香の物は、沢庵の創始する所なりと云う。
※ 弔賻(ちょうふ)- 死者を弔って、その遺族に贈る金品。
沢庵は我が故郷、但馬が生んだ名僧である。「竹下村誌稿」が、沢庵の話で終るのは、何か因縁深い。
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「竹下村誌稿」を読む 396 古文書 9
ムサシが逝って六日目。
午后、掛川図書館での古文書講座に出席した。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。人名辞書より、沢庵の項の続き。
元和丁巳(三年、1617)、筑前守黒田長政、太宰府の崇福寺を以って沢庵を招く。沢庵赴かず。また南京に赴き、芳林庵に寓し、幾ばくもなく城州薪の妙勝寺に到り、一庵に僑居す。後、但(州)の枌里に帰り、第宇を宗鏡の山後に結びて屏居す。丁卯(寛永四年、1627)、偶々但を出でて洛に入る。帝(後水尾天皇)、沢庵の風采を聞き、これを召す。沢庵固辞して朝せず。また但に帰る。泉南の谷氏、祥雲寺を創し、沢庵を延(まね)いて、開山の祖となす。沢庵檀命に応じて、開堂慶讃す。
※ 城州(じょうしゅう)- 山城(やましろ)国の異称。
※ 僑居(きょうきょ)- 仮に住むこと。また、そのすまい。仮ずまい。寓居(ぐうきょ)。
※ 枌里(ふんり)- ふるさと。
※ 屏居(へいきょ)- 世の中から退いて家にいること。隠居。
※ 朝す(ちょうす)- 朝廷に出仕する。
※ 檀命(だんめい)- 檀家の言いつけ。
これより先、家康、法禁を大徳、妙心二寺に下して曰く、その道機、僧臘、兼備せざる者、猥りに住山を許すべからずと。然れども家康薨じて後、台聴に達せず。勅を奉じて大徳に出世するもの、凡そ十四、五輩。寛永丙寅(三年、1626)、幕府重ねて厳制を両寺に加う。明る年、沢庵、玉室翁の法嗣、正隠知を挙げて、本寺席を董(ただ)さしむ。これに於いて幕府、沢庵及び玉室、江月を江戸に召して、是非を詰問す。
※ 法禁(ほうきん)- 法で禁ずること。禁制。
※ 道機(どうき)- 仏教修行にふさわしい心の動き。
※ 臘(ろう)- 仏教において僧侶が比丘としての具足戒を受けてからの年数を数える単位。
※ 兼備(けんび)- 二つ以上の長所やとりえなどをあわせもつこと。かねそなえていること。
※ 住山(じゅうさん)- 僧が寺に住んで修行すること。山ずみ。
※ 台聴(たいちょう)- 身分の高い人がきくこと。
※ 玉室(ぎょくしつ)- 玉室宗珀。京都大徳寺147世の住持。なお、沢庵は153世住持。
※ 法嗣(はっす)- 禅宗で師の法をついだ弟子のこと。
※ 正隠知(れい)- 正隠宗知。大徳寺172世住持。
※ 江月(こうげつ)- 江月宗玩。大徳寺156世住持。
時に衆議蜂起す。然れども沢庵、玉室と固く執りて、前心を改めず。幕府乃ち有司に命じて、玉室を奥の棚倉に謫(なが)し、沢庵を羽の上城に貶(おと)す。
※ 有司(ゆうし)- 役人。官吏。
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「竹下村誌稿」を読む 395 古文書 8
ムサシが逝って五日目。
午前中、袋井の可睡斎のひなまつりに女房を連れだした。夫婦で外出するのは久し振りである。可睡斎には所狭しとひな人形が飾られていた。圧巻であった。「さるぼぼ」のつるし飾りや、室内のぼたん園など見どころ満載であった。御朱印帳を購入し、御朱印をもらう。今から訪れる社寺で集めてみようかと思う。
(さるぼぼのつるし飾り)
(室内のぼたん園)
夜、金谷宿大学理事会。
女房より、ムサシの記事の誤りの指摘があった。先ず購入先は、ペットショップではなくて、柴犬専門の繁殖をしていた店で、血統書付きの柴犬だった。次に、幼犬のうちにしつけの訓練に出す事はしなかったが、動物病院のしつけ教室には何度も通い、ムサシは女房の云うこと(コマンド)はよく聞いたという。ムサシの名誉のためというので訂正する。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。人名辞書より、沢庵の項の続き。
鏡、江州に移り、また南京に移る。沢庵輙(すなわ)ち随侍す。既にして鏡、寂(じゃく)す。沢庵乃(すなわ)ち、陽春、祖塔を守る。
※ 南京(なんきょう)- 平城京。南都。
※ 祖塔(そとう)- 祖師をまつった塔。
慶長丁未(十二年、1607)、沢庵、年三十五。一衆、沢庵を推して、大徳第一座に置き、黄徳禅席を継がしむ。この時また龍興、南宗禅寺を領し、山に住むこと三月、退鼓を鳴らし、一偈を唱えて衆に辞し、出でて江南に帰る。道俗歓迎して、前後に引随す。
※ 禅席(ぜんせき)- 禅宗の寺院。禅家(ぜんけ)。
※ 南宗禅寺(なんしゅうぜんじ)- 南宗寺。堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。山号は龍興山。
※ 一偈(いちげ)- 経典中で、詩句の形式をとり、仏徳の賛嘆や教理を述べたもの。
※ 道俗(どうぞく)- 僧侶と俗人。
亥の年(慶長十六年、1611)に豊臣秀頼、沢庵の道誉を聞き、使いを遣わしてこれを大坂に召す。沢庵固辞して起たず。細川忠興、一寺を豊の前州(豊前国)に創し、沢庵に住持たらんことを請う。沢庵辞すること、再三、終に就かず。八月朔(ついたち)、洛の大仙院に住す。これより南宗に、大仙に、一往一来、処に随いて衆を匡す。沢庵天資世事を厭う。即ち紛冗を泉の天下邑に避く。
※ 道誉(どうよ)- その優れた道業が世に聞こえていること。道の誉れ。
※ 天資(てんし)- 生まれつきの資質。天性。
※ 紛冗(ふんじょう)- みだれること。ごたごたしてもつれること。
大坂冬の陣(慶長十九年、1614)、大坂夏の陣(慶長二十年、1615)を指す。
読書:「我的日本 台湾作家が旅した日本」
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「竹下村誌稿」を読む 394 古文書 7
ムサシが逝って四日目、ダイニングキッチンの広さが目立つ。女房、冷蔵庫に一時保存した、ムサシのエサを見付けて処分する。
午后、金谷宿大学の理事会前の打ち合わせ。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
而して、(沢庵)和尚が経歴は、人名辞書を引きてこれを照会すべし。
沢庵禅僧なり。名は宗彭(しょうほう)。沢庵はその号。天正元年(1573)を以って、但州出石邑に生る。姓は平氏、三浦介義明の後秋庭の族なり。沢庵甫(はじ)めて、十歳、(但)州の唱念寺に投じ、髪を剃りて浄土宗の僧となる。年十四、勝福寺に入り、禅を希先西堂に学ぶ。先ず、便(すなわ)ち帰戒を授け、且つ法諱を与えて、秀喜と云う。沢庵常に先の道話を聞きて、心に遊徧方参の志を抱く。先順世の後、董甫(宗)仲、偶々宗鏡丈室に居す。沢庵則ち仲に学び、参禅して倦(う)むことなし。
※ 帰戒(きかい)- 三帰戒のこと。仏・法・僧の三宝に帰依することであり、インド以来授戒やその他の儀式に際して唱えられえる。(南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧)
※ 法諱(ほうき)- 出家後の諱のこと。宗派によって命名方法などが異なるが法名とほぼ同じ。
※ 遊徧方参(ゆうへんほうさん)- 「遊方」は行脚すること。「徧参」は、禅僧が諸国を歩きまわり、各地の優れた高僧から、広く教えを受けること。
※ 順世(じゅんせ)- 高僧が死ぬこと。示寂(じじゃく)。遷化(せんげ)。
※ 丈室(じょうしつ)- 寺の住職の部屋。方丈。
仲、洛(京)に帰るに及びて、沢庵随いて大徳寺に扺(うつ)り、錫を掛けて留まり、名を改めて宗彭と云う。ここに真如文正公仁公、泉南の大安寺に寓す。仁は文字に長ずるものなり。沢庵これを聞き、一朝錫を飛ばし、泉南に到り、仁に依り、書牎に研覃す。
※ 錫を掛ける(しゃくをかける)- 掛錫(かしゃく)。行脚の禅僧が、僧堂に滞在し修行すること。
※ 錫を飛ばす(しゃくをとばす)- 飛錫(ひしゃく)。僧が諸国を遍歴修行すること。
※ 書牎(しょそう)- 書窓。書斎のこと。
※ 研覃(けんたん)- 深くきわめること。
一衲冬を凌ぎ、一葛夏を度(わた)りたる。一日海会寺に祭あり。沢庵またこれに預かる時に、一葛甚だ垢汚(あかよご)せるを以って、沢庵躬(みずか)らこれを井水に濯(すす)ぎ、朝日に晒して、その乾くを待つ。同行の僧、戸を叩きて曰く、共に斎に赴くべしと。沢庵その葛衣の更(さら)に被すべきものなし。即ち裸体なるを以っての故に、戸を閉じて面せず。彼をして先ず赴かしむ。
※ 衲(のう)- 人が捨てたぼろを縫って作った袈裟のこと。
※ 葛(くず)- かたびら。くずで作った布。
※ 海会寺(かいえじ)- 堺市堺区にある臨済宗東福寺派寺院。夏の陣で焼失後再建された本堂・庫裏・門廊は国の重要文化財。
※ 斎(さい)- 仏事のときの食事。
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「竹下村誌稿」を読む 393 古文書 6
ムサシが逝って三日目、ムサシの生活場所はすっかり片付いたが、まだ日常は戻ってこない。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
二 沢庵和尚状(渡辺氏所蔵)
久しく申し頼まず、時々は源右
参会せしむ御事ども、申し出で居り候。 □は蝕字
先日は早速、芳書を預り、本望至極に候。御休息には、来話希(のぞ)むべく候。別して、一度□□片原町御住居の御物語ども□候故、この茶、宇治より茶の時分にくれし、曽根の茶局とも存じず候えども、これを進ぜ、期□候なり。恐々不悉
六月二十二日 可□
宗彭
清雲老
茶局
※ 恐々(きょうきょう)- おそれかしこまるさま。
※ 不悉(ふしつ)- 思うことを十分に言いつくさないこと。手紙の末尾に書き添える語。
因って云う。沢庵和尚は品川東海寺の開山なり。名を宗彭と云う。地名辞書に、東海寺は寛永十五年(1638)の建立にして、萬松山と号し、臨済宗の大伽藍なり。塔頭十七院を有し、寺域四万八千坪を占め、寺領五百石を有せしが、近時変革にあい、頗る旧観を失えり。
※ 塔頭(たっちゅう)- 寺院のなかにある個別の坊をいう。寺院を護持している僧侶や家族が住む。
武蔵新風土記に、本寺草創の時、和尚の詠める歌に、
尽きせじな 末は新治 筑波山 海となるまで 君が世なれば
※ 新治(にいばり)- 古代律令制以前に、現在の茨城県西部に存在した新治国のことを指す。「古事記」に、東征を遂げた倭建命が、帰路の甲斐国酒折で詠んだ、「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌で知られる。
又、江戸名所図会に、東海寺は門前の緑水潺湲として、品川の流れ、海口に通ず。屋後青山崔嵬として脩竹、風帆沙島の勝覧、筆の及ぶ所に非ず。殊更、方丈の林泉は小堀遠州候の差図にして、庭作りの規範とす。都て、満地、青松丹楓、枝葉を交え、晩秋の奇観、錦繍を洒(さら)すが如し。常に寂々寥々として、実に禅心を澄ましむを精舎(寺)なり。
※ 潺湲(せんかん)- さらさらと水の流れるさま。
※ 屋後(おくご)- 家のうら。家屋の背面。
※ 青山(せいざん)- 草木が青々と茂っている山。
※ 崔嵬(さいかい)- 山で、岩や石がごろごろしていて険しいさま。
※ 脩竹(しゅうちく)- 長くのびた竹。修竹。
※ 風帆(ふうはん)- 風をはらんでふくれた帆。
※ 沙島(しゃとう)- 砂の島。
※ 勝覧(しょうらん)- 良い眺め。
※ 林泉(りんせん)- 林や泉水を配して造った庭園。
※ 満地(まんち)- 地面いっぱいに満ちていること。地上一面。
また沢庵、天資澹泊にして、希望寡(すくな)し。嘗て諸雄藩の寺を創して、以って招くもの多し。皆な趣(おもむ)かず。幕府また、嘗て切に沢庵を召すことあり。応ぜず、その時の歌に、
※ 天資(てんし)- 生まれつきの資質。天性。
※ 澹泊(たんぱく)- 物事にこだわらず、さっぱりしていること。
おめしなら かえり沢庵 おもえども おへどときけば むさしきたなし
お召し(飯)なら 帰り沢庵(タクアン) 思えども
お江戸(反吐)と聞けば 武蔵(むさし)来たなし(穢し)
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愛犬ムサシの戒名を考える
ムサシが逝って二日目、家の中は灯が消えたようである。
今、ムサシの戒名を考えている。人ではないから、勝手に付けても問題ないだろう。
ムサシが家に来たのは、自分が出張中のことで、もう幼稚園で働き出していた娘が、何の相談もなく買って来てしまった。まめ柴と呼ばれた小型の柴犬で、ペットショップで可愛くて、買ってきてしまったらしい。(訂正/ペットショップではなくて、柴犬専門の繁殖をしていた店で、血統書付きの柴犬だった。)名前は娘が付けた。正しくは「武蔵」なのだが、自分はカタカナで「ムサシ」と書いて来た。この命名が彼の一生を決めたような気がしてならない。
娘は自分の部屋で飼い始めたけれども、昼間は仕事で娘もいない。大反対の女房は手を出さず、幼いムサシは一匹で部屋に放って置おかれた。幼犬のうちにしつけの訓練に出す犬もあったが、事情が事情で、ムサシにはそんな機会もなかった。(訂正/動物病院のしつけ教室には何度も通い、ムサシは女房の云うこと(コマンド)はよく聞いた)大きくなるにつれて、なかなか部屋に置けなくなって、仕方なく女房が手を出し始めた。
そんな事情で、ムサシは人に心を全面的には許すことのない、柴犬の気性をその侭に成犬になった。もっとも、人にベタベタする犬よりも、毅然としたムサシの性格が、自分的には嫌いではなかった。
やがて、娘は嫁いで、ムサシは我が家に残され、世話はもっぱら女房の係りになった。ムサシは気が荒くて、気に入らないとパクリと噛みつく癖がある、油断ならない犬になった。女房も、自分もこの17年の間に、5、6回ずつ噛みつかれている。自分も一度は医者に通うほどの噛み傷を負ったことがある。やたらに身体を触るのを嫌い、漸く身体を自由に触らせるようになったのは、最晩年になってからであった。
カメラを向けると顔を背け、決してカメラ目線にはならなかった。だから、ムサシのあまり良い写真がない。
そんなことを思い出しながら、次のように、戒名を付けてみた。
孤柴武蔵犬士
何とも武ばった戒名になったが、ムサシにふさわしい戒名だと思う。「武蔵」の名は、戒名には直接には入れないのだろうが、犬だから構いはしない。
こう考えると、自分が敢えてカタカナで「ムサシ」と書いていたのは、恐らくその猛々しい性格を少しでも和らげたい、という意識が働いたためかもしれない。
先に逝った愛犬は、飼い主が来るまで、成仏しないで、浄土の手前の花園で、飼い主を待っているものだと聞いたことがある。ペットロスを和らげる作り話臭いが、ムサシに限っては、飼い主を待つことなく、勝手に成仏して行ってしまうだろう、と少しさびしく思った。
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愛犬ムサシ逝く
今朝11時15分、愛犬ムサシが死んだ。享年16歳と10ヶ月。
昨年後半から段々に弱って、散歩にも出かけられなくなり、その内、自分では起きられなくなり、頑張って生きて来たが、17歳に2ヶ月残して、力尽きた。体重は9キロほどあったものが、4キロを切るまでに減っていた。毛皮で目立たなかったが、触るとあばら骨や背骨の存在が判った。人間の年齢では80代半ばから90近い年齢で、最後は食事も喉を通らなくなっていた。
今朝、女房に起されて、ムサシが痙攣しているという。もう長くはないと思った。掛川の娘(元の飼い主)を呼び、娘が来るまでは、細いながら息をしていた。小康状態と見えて、娘が一度掛川に帰った。そして、まだ家に着かないうちに、逝ってしまった。少し目を離したすきに静かに逝った。周りで声が聞こえる間は頑張っていたが、静かになって、まあ、この辺りで良いかと感じたのかもしれない。大往生であった。
女房がムサシが息をしていないというので、見に行くと、確かにすでに息はなく、全身弛緩の体で、尿と宿便をわずかに漏らしていた。汚れを奇麗にするなど、女房が調える内にも、硬直化が進み、一時間ほどで身体がすっかり硬直してしまった。
呆然とする女房に代わり、再度駆け付けた、掛川の娘があちこちに電話して、段取りを整えてくれた。夕方には動物病院から花束が届いた。火葬を頼んだ業者が夜になって来たので、掛川の娘と孫三人、息子と我等夫婦で見送った。
といっても、車に火葬設備があって、一時間余で、自宅駐車場で火葬が済んでしまった。煙など、全く出ないのだと聞く。今は、小さな骨壺に入って、ムサシの最晩年の生活の場であった、ダイニングキッチンの隅に納まっている。あわただしくも、あっけない一日であった。願わくば、ずっと外出もままならず面倒を見てきた女房が、ペットロスにならないことを祈るばかりである。
(こんなに小さくなった)
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午后に、駿遠の考古学と歴史講座に出席した。
読書:「お伊勢まいり 新・御宿かわせみ6」 平岩弓枝 著
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