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「外桜田一件風聞書」を解読

(吉村昭著「桜田門外ノ変」)

午後、金谷宿大学「古文書に親しむ」の第2回講座へ出席した。今回は「桜田門外の変」である。その前に吉村昭の「桜田門外ノ変」という小説を読んだ。吉村昭氏の歴史小説は徹底的に資料を読んで、小説ながら事実と反することは書かないことを徹底してしていると聞いた。だから、古文書を読むに当り、参考になると思った。

吉村昭の「桜田門外ノ変」は単行本500頁にも及ぶ長編小説で、全体の5分の4しかまだ読んでいないが、肝心の井伊掃部頭を桜田門外で討ち取るクライマックスは読んだ。平行して古文書の「外桜田一件風聞書」も読み進めた。大方は理解できたが、10文字ほど解読できずに本日に至った。

小説で強調されていた、当日が春の大雪だったことは、古文書には一切書かれていない。目撃した様々な人から聞き取って記した報告書のようなものだが、日本を揺るがす大事件で、そのことに圧倒されて、誰もその日が大雪だったことには言及する暇がなかったように見える。聞き取り調査をしたのが直後だったから、当日の天候など述べなくても、誰もが知っていることだったのだろう。

赤穂浪士の討ち入り、二二六事件、そして、この桜田門外の変、三つの事件に共通するのは、当日がいずれも雪だった点である。真っ白な雪に鮮血は何ともドラマになる。さて、本日は古文書の冒頭の部分を、書き下して載せる。

安政七年(庚申)三月三日、外桜田一件風聞書
今朝五時過ぎ、井伊掃部頭様御登城がけ、外桜田御門外御堀端、上杉彈正大弼様辻番際にて、浪人躰の侍四人ほど御先供へ切り入り、その内十四五人ほどにて、掃部頭様御駕籠を目がけ無法に切かけ、騒動に及び、御同人様御供方、前後散乱いたし候
一 右場所にて、掃部頭様御供方五人、即死と相見え申し候、その外、怪我人何れも御同勢の由にて即時御屋敷へ引取る
一 右浪人躰の者、追々日比谷御門の方へ逃げ去り候、うち弐人八代渕河岸、増山様辻番所脇へ、数ヶ所手疵これあり即死致し居り候
一 右浪人の内壱人、何者の生首に候や、手に提げ脇坂様表御門へ相越に薬など無心いたし候えども、不審の躰ゆえ、彼れ是れと手間取り候うち立ち戻り、辰ノ口御堀端にて壱人は自害いたし、壱人は生首を提げ、容易ならぬ手負にて九死に一生の様子、側へ皮胴をぬぎ、右首を包み置き候、うち右手負人並び首とも遠藤様辻番へ引上げ申し候
一 右浪人躰の内四人、何れも数ヶ所の手負いにて、脇坂様表御門へ駆け込み、御玄関へ相通り申し候、何れも伊賀袴又は股引などにて、割羽織を着し白木綿にて鉢巻、襷など相掛け罷り在り候
一 右騒動の場所に鉄張りの笠壱つ残る、風呂敷包にいたし刀のようなるもの、その外、下駄、傘など余程これ有り申し候
一 上杉様より外桜田御門外へ野服にて固め出張りこれ有り候


この記述だけでも大変な事件であった事がわかる。小説によると事件はもっと生々しくなる。掃部頭の彦根藩はもともと徳川軍団の中でも勇猛で馳せた藩で、幕末でも武術は盛んで、水戸藩士に狙われていることは分かっていて、備えは十分であった。だから屋敷への討ち入りは断念し、登城時を狙うことになった。ただ、当日が雪であったので刀を濡らすことを嫌って袋を被せるなどしていて、臨戦態勢ではなかった。屋敷からお城は目と鼻の先で、ここで襲われるとは想像していなかった。それで一歩立ち遅れて、少人数の水戸藩士にやられてしまう結果になった。

それでもよく戦った。実際の戦いはテレビのチャンバラとは大違いで、そのほとんどがつばぜり合いの戦いであった。身体の近くで刀が細かく烈しく動く。事件の後の現場には、多量の血痕とともに、多数の指や手、耳や鼻などが雪に埋まるように残されていたという。(後日に続く)
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