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「虫附御用捨願」に見る武士と百姓

(ふるさと間近、遠く来日岳が見える)

名古屋のかなくんの家から故郷まで、かなくん母子を連れて車で行った。暑さが尋常ではなく、京都を出て国道9号線を行く途中で、電光標示にあった気温は、35℃、34℃、36℃と標示された。ふるさとの豊岡は今日も38℃のうだるような暑さであった。

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一昨日の古文書解読基礎講座、二つ目の古文書の、書き下したものを示す。

虫附御用捨願   小鹿本新
   恐れながら書付を以って御願い申上げ奉り候
御知行所、小鹿本新両村一同申上げ奉り候、当田方の儀、出穂以前、葉虫付き、出穂以後うんか(温夏)の愁い御座候ところ、格別のわざわい(殃)にも相成りまじくと存じ奉り罷り在り、その後八月中長雨冷気がちにて実入り方悪しく候や(哉)、刈入れ見候ところ、格外の取り劣りに相成り驚き入り、今更御願い申上げ奉り候は、何とも恐れ入り奉り候えども、全く夏中の虫附見損じかようの違作とは見込み違いにて、当節に相成り御上納にもかかわり候ほどの義にて、何とも当惑至極仕り候に付き、余儀なく今般恐れを顧ず御願い申上げ奉り候は、なにとぞ(何卒)御憐憫を以って、御容赦(用捨)御引き方仰せ付けられ、下し置かれたく、恐れながらこの段、書付を以って御願い申上げ奉り候 以上(以下略)


葉虫やうんかの被害もわずかなものと見損じて、収穫してみたところ、実入りが想像以上に悪く、年貢の上納も難しくなったから、年貢を減免してもらいたいという嘆願書である。この結果がどうなったかはわからないが、年貢の減免の嘆願書は大変数が多いところを見ると、窮状を訴えれば、かなりの程度減免に応じてもらった実績があるのではないかと思う。

時代劇の悪代官ではないが、江戸時代の年貢の取立ては大変厳しいものと理解していたが、実態はそういう例は少ないものと思う。江戸時代の武士は兵としての役割は失われ、大部分が役人であった。地方の代官は無事に任期を終えることが最大の手柄で、トラブルは経歴に疵が付いてマイナスになってしまう。その点、今の役人と共通するものがあった。違うのは今の役人が法律にがんじがらめになっているのに比べ、江戸時代の役人には裁量の余地がかなり多かった。上記のような嘆願書を受けたとき、百姓が不満に思い江戸表に訴えられることだけは避けたかった。だから、実態を調査し、百姓の言い分が正しいと判断すれば、嘆願をかなりの程度聞いたようである。

「武士は食わねど高楊枝」といわれるように、武士階級の窮状は百姓も承知していたから、両者は敵対関係になることが少なかったと思われる。江戸時代の一揆は代官所を打ち壊すことは少なく、打ち壊しの対象は米の買占めで暴利を得ようとする商人に向けられた。江戸時代が260年も続いた理由の一つは、支配階級の武士と被支配階級の百姓の一種の連帯感があったためだと類推する。
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