平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
愛知県の滝、「鮎滝」と「牛の滝」
久し振りに滝を見に、息子と車を走らせた。滝を数えるときの単位は何と言えばよいのか、ハテ?と考えた。思い浮かんだのは、本、と筋。1本、2本では味気ないし、一筋、二筋は力強さに掛ける。ネットで検索してみると、たくさんの滝好きがやはり疑問を呈している。答えがあった。「本」「筋」以外に「条」とか「瀑」という数え方もあるようだ。ワン、ツーだけで済む英語に比べて、何とも日本語はやっかいであるが、それだけに知る楽しみがある。今日の感覚としては二つの滝を「瀑」と「条」に使い分けて置く。多分に感覚的な座りの良さだけである。
(「鮎滝」全景、上部の導水溝のラインが気になる)
「鮎滝」は愛知県新城市出沢にある。国道257号線の旧道、豊川の右岸(左岸に新道が出来ている)に花の木公園という釣堀センターがあるが、その向い側に大瀑布の観を呈している。何と言ったらよいのか、これって天然の滝といえるのだろうか。上流にダムが出来て豊川の左岸に沿って長篠発電所への導水溝が出来、100メートルほどある導水溝の一方の側からあふれた水が瀑布となって岩肌を跳ね落ちている。今日は水量が多いから見ごたえがある。昔から辺りは岩を削った渓谷となって、滝も幾つかあったのだろうが、今の滝は明らかに人工的に作られたものと感じてしまう。それでもなかなか迫力があるから良いとしよう。
「長篠」という地名から、戦国時代に詳しい息子に長篠の戦いは誰と誰の戦いだったかと聞くと、武田信玄の死後、息子勝頼と信長が戦ったもので、武田騎馬軍団が信長の鉄砲軍に敗れた。日本の戦に銃が戦術として使われた最初であるという。そういえばそんな絵を教科書で見た。
鮎滝は長篠の古戦場からも遠くなく、往時はその上に猿橋という橋が架かっていた。長篠の戦いに敗走する武田軍にあって、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り、自らは我こそは勝頼と名乗り、織田方の瀧川源右衛門助義と組打ち、差違えて戦死した。その橋詰での出来事が案内板に記してあった。
「牛の滝」はそれより20分ほど走った、豊川市東上町にある。豊川の支流、境川をJR飯田線東上駅のほうから上流に向けて進もうとしたら道が無くなった。ほとんど廃道のようになったハイキングコースらしきものはあるが、歩けそうな道ではなかった。一度は遊歩道として整備したものであろう。上から攻めようと、県道21号線に出たすぐのところに「牛の滝」の看板と駐車場があった。
(一条の「牛の滝」)
滝壷への遊歩道は倒木、落石の危険があるため立入禁止になっていたが、自己責任で行ける所まで行ってみた。まだ葉っぱに青さが残った倒木があり、わずかに土砂崩れの後もあったが、遊歩道までは及んでいなかった。おそらくこの夏に崩れたものだろう。滝にも倒木が1本掛かっていた。案内書とは滝の落口が右に動いたようで、かつては2段に見えたものが、今は一筋に落ちていた。高さ10メートルといい、滝口のすぐ上を県道が通り、樹木の向こうに車が通るのが見えた。
この滝は雄滝で、下流に落差4メートルの雌滝もあるというが、遊歩道が立入禁止で、行けなかった。「牛の滝」は別名「常竜滝」「黄牛滝」ともいわれる。境川の名の通り、宝飯郡と設楽郡の境になっていて、渇水期には水争いが絶えなかった。そんな事情が背景にある、淵から黄牛が湧出したという伝説が残っている。「牛の滝」の名前の由来である。
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