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「外桜田一件風聞書」を解読

(吉村昭著「桜田門外ノ変」)

午後、金谷宿大学「古文書に親しむ」の第2回講座へ出席した。今回は「桜田門外の変」である。その前に吉村昭の「桜田門外ノ変」という小説を読んだ。吉村昭氏の歴史小説は徹底的に資料を読んで、小説ながら事実と反することは書かないことを徹底してしていると聞いた。だから、古文書を読むに当り、参考になると思った。

吉村昭の「桜田門外ノ変」は単行本500頁にも及ぶ長編小説で、全体の5分の4しかまだ読んでいないが、肝心の井伊掃部頭を桜田門外で討ち取るクライマックスは読んだ。平行して古文書の「外桜田一件風聞書」も読み進めた。大方は理解できたが、10文字ほど解読できずに本日に至った。

小説で強調されていた、当日が春の大雪だったことは、古文書には一切書かれていない。目撃した様々な人から聞き取って記した報告書のようなものだが、日本を揺るがす大事件で、そのことに圧倒されて、誰もその日が大雪だったことには言及する暇がなかったように見える。聞き取り調査をしたのが直後だったから、当日の天候など述べなくても、誰もが知っていることだったのだろう。

赤穂浪士の討ち入り、二二六事件、そして、この桜田門外の変、三つの事件に共通するのは、当日がいずれも雪だった点である。真っ白な雪に鮮血は何ともドラマになる。さて、本日は古文書の冒頭の部分を、書き下して載せる。

安政七年(庚申)三月三日、外桜田一件風聞書
今朝五時過ぎ、井伊掃部頭様御登城がけ、外桜田御門外御堀端、上杉彈正大弼様辻番際にて、浪人躰の侍四人ほど御先供へ切り入り、その内十四五人ほどにて、掃部頭様御駕籠を目がけ無法に切かけ、騒動に及び、御同人様御供方、前後散乱いたし候
一 右場所にて、掃部頭様御供方五人、即死と相見え申し候、その外、怪我人何れも御同勢の由にて即時御屋敷へ引取る
一 右浪人躰の者、追々日比谷御門の方へ逃げ去り候、うち弐人八代渕河岸、増山様辻番所脇へ、数ヶ所手疵これあり即死致し居り候
一 右浪人の内壱人、何者の生首に候や、手に提げ脇坂様表御門へ相越に薬など無心いたし候えども、不審の躰ゆえ、彼れ是れと手間取り候うち立ち戻り、辰ノ口御堀端にて壱人は自害いたし、壱人は生首を提げ、容易ならぬ手負にて九死に一生の様子、側へ皮胴をぬぎ、右首を包み置き候、うち右手負人並び首とも遠藤様辻番へ引上げ申し候
一 右浪人躰の内四人、何れも数ヶ所の手負いにて、脇坂様表御門へ駆け込み、御玄関へ相通り申し候、何れも伊賀袴又は股引などにて、割羽織を着し白木綿にて鉢巻、襷など相掛け罷り在り候
一 右騒動の場所に鉄張りの笠壱つ残る、風呂敷包にいたし刀のようなるもの、その外、下駄、傘など余程これ有り申し候
一 上杉様より外桜田御門外へ野服にて固め出張りこれ有り候


この記述だけでも大変な事件であった事がわかる。小説によると事件はもっと生々しくなる。掃部頭の彦根藩はもともと徳川軍団の中でも勇猛で馳せた藩で、幕末でも武術は盛んで、水戸藩士に狙われていることは分かっていて、備えは十分であった。だから屋敷への討ち入りは断念し、登城時を狙うことになった。ただ、当日が雪であったので刀を濡らすことを嫌って袋を被せるなどしていて、臨戦態勢ではなかった。屋敷からお城は目と鼻の先で、ここで襲われるとは想像していなかった。それで一歩立ち遅れて、少人数の水戸藩士にやられてしまう結果になった。

それでもよく戦った。実際の戦いはテレビのチャンバラとは大違いで、そのほとんどがつばぜり合いの戦いであった。身体の近くで刀が細かく烈しく動く。事件の後の現場には、多量の血痕とともに、多数の指や手、耳や鼻などが雪に埋まるように残されていたという。(後日に続く)
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畑の隅の山椒の木

(東側にフェンスを作った)

我が家の畑の隅に山椒の木がある。最近、敷地東側の隣地の茶畑を改植するといって、茶の木をすべて抜いてしまった。植えるのは一年後だというから、女房の提案でこのチャンスに仕切りが無かった茶畑との間にフェンスを設置してもらうことにした。今週の初め、猛暑の中を1日半掛かって業者のおじさんが息子と来て、大汗をかきながら、ブロックを一段積み、フェンスが取り付けてくれた。業者が来る前に、フェンス周りの草や枝を取り除く作業を女房がやっていて、今日見たら甘夏の下、フェンスの側に高さ50cmほどの山椒の木があるのを見つけた。


(甘夏の下の山椒の木)

山椒の木がそこにあることは知っていた。もう30年近く昔のことになる。故郷のお袋が作った、蕗に山椒の実を入れたつくだ煮を良く食べた。ピリッとしてたくさん食べると舌べらがしびれる。その味と感覚が忘れられなくて、ある時、山から山椒の実を取って来て食べてみようと思った。たけ山の山頂近くの雑木林に分け入って、たくさん生っている山椒の実を少し頂いてきた。家に帰って女房に見せると、こんなに黒く硬くなっては駄目だという。季節はもう秋になっていた。蕗の季節も過ぎていただろう。もっと青いうちに取ったものがつくだ煮に出来るのだとその時初めて知った。

がっかりして、畑の隅に山椒の実を捨てた。ところが、何年かして捨てた場所に山椒の幼木がたくさん出ているのに気付いた。場所が甘夏の木の下だったから、木は大きくならなかった。すぐに草の中に隠れてしまう。山椒の幼木は棘があるから、草を取るときに抜き取られて、それでも、一本だけ残した。新芽を料理の彩りに使ったこともあったが、そのうちに忘れられた。時々草を取るときに出てきて、その存在を知る。大きくなる前に上部を詰めてしまうので、なかなか成長しない。

今日見ると、直径3cmほどの幹が二株あって、10cmほどのところで詰められ、新しい枝がそこから伸びて新芽を出している。

山椒の木は大きくなると5メートルにもなるという。もっと日の当る広い場所に植え替えれば実をつけるようになるだろうか。山椒の葉はアゲハチョウの幼虫が食べるらしい。甘夏の木にはよくアゲハチョウが飛んできている。草に隠れてアゲハチョウにも見つけられずに生きてきたということであろうか。

ネットで見ると、果実の主な辛味成分はサンショオールとサンショアミドという。サンショオールには毒性があり、東北地方ではこれを煮たものを川に流し魚をとる漁法があったという。多分、痺れを感じるのはサンショオールの方だ。魚はしびれて浮いてくるのであろう。
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安政三年八月「大風之事」

(我が家にもタカサゴユリが咲く、         
      種と球根で増殖し、近所の屋外いたるところに蔓延っている)

木曜日の午後は、このところ靜岡の古文書解読基礎講座で、靜岡市中央図書館に通っている。今日は6回目である。今日解読した古文書よりも、先週「大地震之事」に続いて取り上げられた、「大風之事」という記事を見て行こうと思う。書き下した文を以下に示す。

 大風のこと
安政三(丙辰)年八月二十五日のことなり、同日明け六つ頃より風起り、もっとも前夜より雨も少々は降り、それより朝五つ時より段々吹き募り、暮六つ時より追々大風となり、その烈しきこと例(たと)えんに物なし、藤枝近在民家は残らず吹潰され、並木その外大木の倒れ候こと数うるに遑(いとま)あらず、この年の大風、田に障りなし、豊作にてありしなり、八月二十五日は丁度彼岸の中日に当り、風雨はつよく有りしかども、最早ひがんよりは大風とても地は吹かず、空をのみ吹くよし、これにより田に障りなし、列して美濃、尾張辺りは大豊年なり、江戸表は同日なおまた前代未聞の大風とぞ、殊に津波打かけ、築地御門跡は総潰れ、鉄砲洲辺り総流れ、深川は残らず浪に引かれ、永代橋落ち、八幡様、霊岸寺のみ残りてあとは残らず水浸しとなる

※ 遑(いとま)- すきま。ひま。

安政元年の大地震に続いて、安政三年の大風(台風)の話である。藤枝近在の民家が残らず吹き潰された大風なのに、田圃には障りが無かったという。その理由として、彼岸以後の台風は地には吹かず、空にのみ吹くからだという。そんな話は余り聞いたことがない。

この台風は記述から推測すると、江戸を直撃したようで、静岡県は台風の西側になり、風台風となった。風向きは初めは北風から次第に西風に移ったと思われる。南から吹く汐風では無かったから、塩害も無く、水に浸かることも無かったから、風になぎ倒された稲はあっただろうが、深刻な被害にはならなかったのであろう。

一方、台風が直撃した江戸表では大変な被害をもたらしたと記している。伝聞した話を記したものであろうが、江戸の資料をネットで確認してみると、かなり正確に被害を記している。ここで「津波」と呼んでいるが、台風による高潮のことである。大風にためか、高潮によるのか、先の地震でも倒れなかった築地門跡の本堂が倒壊している。「築地門跡」は西本願寺の俗称である。鉄砲洲辺りや深川の被害は明らかに高潮の被害である。防潮堤の無い時代は高潮には全く無防備だったのだろう。永代橋が落ちたのは橋桁に船が衝突したためだという。

今日、解読した古文書は「名主交替願」「久離書替」「検見廻状」である。また後日取り上げてみよう。
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愛知県の滝、「鮎滝」と「牛の滝」

(一瀑の「鮎滝」)

久し振りに滝を見に、息子と車を走らせた。滝を数えるときの単位は何と言えばよいのか、ハテ?と考えた。思い浮かんだのは、本、と筋。1本、2本では味気ないし、一筋、二筋は力強さに掛ける。ネットで検索してみると、たくさんの滝好きがやはり疑問を呈している。答えがあった。「本」「筋」以外に「条」とか「瀑」という数え方もあるようだ。ワン、ツーだけで済む英語に比べて、何とも日本語はやっかいであるが、それだけに知る楽しみがある。今日の感覚としては二つの滝を「瀑」と「条」に使い分けて置く。多分に感覚的な座りの良さだけである。


(「鮎滝」全景、上部の導水溝のラインが気になる)

「鮎滝」は愛知県新城市出沢にある。国道257号線の旧道、豊川の右岸(左岸に新道が出来ている)に花の木公園という釣堀センターがあるが、その向い側に大瀑布の観を呈している。何と言ったらよいのか、これって天然の滝といえるのだろうか。上流にダムが出来て豊川の左岸に沿って長篠発電所への導水溝が出来、100メートルほどある導水溝の一方の側からあふれた水が瀑布となって岩肌を跳ね落ちている。今日は水量が多いから見ごたえがある。昔から辺りは岩を削った渓谷となって、滝も幾つかあったのだろうが、今の滝は明らかに人工的に作られたものと感じてしまう。それでもなかなか迫力があるから良いとしよう。

「長篠」という地名から、戦国時代に詳しい息子に長篠の戦いは誰と誰の戦いだったかと聞くと、武田信玄の死後、息子勝頼と信長が戦ったもので、武田騎馬軍団が信長の鉄砲軍に敗れた。日本の戦に銃が戦術として使われた最初であるという。そういえばそんな絵を教科書で見た。

鮎滝は長篠の古戦場からも遠くなく、往時はその上に猿橋という橋が架かっていた。長篠の戦いに敗走する武田軍にあって、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り、自らは我こそは勝頼と名乗り、織田方の瀧川源右衛門助義と組打ち、差違えて戦死した。その橋詰での出来事が案内板に記してあった。

「牛の滝」はそれより20分ほど走った、豊川市東上町にある。豊川の支流、境川をJR飯田線東上駅のほうから上流に向けて進もうとしたら道が無くなった。ほとんど廃道のようになったハイキングコースらしきものはあるが、歩けそうな道ではなかった。一度は遊歩道として整備したものであろう。上から攻めようと、県道21号線に出たすぐのところに「牛の滝」の看板と駐車場があった。


(一条の「牛の滝」)

滝壷への遊歩道は倒木、落石の危険があるため立入禁止になっていたが、自己責任で行ける所まで行ってみた。まだ葉っぱに青さが残った倒木があり、わずかに土砂崩れの後もあったが、遊歩道までは及んでいなかった。おそらくこの夏に崩れたものだろう。滝にも倒木が1本掛かっていた。案内書とは滝の落口が右に動いたようで、かつては2段に見えたものが、今は一筋に落ちていた。高さ10メートルといい、滝口のすぐ上を県道が通り、樹木の向こうに車が通るのが見えた。

この滝は雄滝で、下流に落差4メートルの雌滝もあるというが、遊歩道が立入禁止で、行けなかった。「牛の滝」は別名「常竜滝」「黄牛滝」ともいわれる。境川の名の通り、宝飯郡と設楽郡の境になっていて、渇水期には水争いが絶えなかった。そんな事情が背景にある、淵から黄牛が湧出したという伝説が残っている。「牛の滝」の名前の由来である。
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「四国お遍路まんだら」の感想文届く

(大代川土手のタカサゴユリ)

O氏から「四国お遍路まんだら」の感想文が届いた。原稿用紙に30枚にも及ぶ長文の感想文である。拙著に対して、身に余る誉め方で、転記するのに気が引けるが、嬉しくて書き込みたくなった。

O氏は78歳、40年来の友人である。O氏自らも、小説集1冊、句集2冊の、著者と出版社共同出版の本を出している。O氏のことは、このブログで「夢は仙人になること」2006.5.6の書き込みで紹介したことがある。

さっそく引用しよう。

内容も製本も一級品
この本は、「四国八十八ヶ所」遍路の文字通り、同行二人の歩き遍路の実践の、「信仰記」であり、「報告記」であり、「体験記」であり、且つ「案内書」でもあるとみられます。(中略)僕など文学好きには、おまけが付く気持です。まるで私小説の名著を読む味わいがありました。

きれいな見事な本に仕上がりましたね。A5版・厚手上質紙・カラー印刷頁はアート紙。大き目の活字で、どこから見ても申し分のない、立派な編集だと思います。誤字・脱字といったものも、何も気付きませんでした。

114頁の、この書のタイトルを「四国お遍路まんだら」にしようと思った、その動機を読んで、思わず〈凄い!〉と唸りました。何故って、これこそ空海の悟りの、一境地であると思っているからです。


自らも本を出したO氏の言葉だから、しかも自分が意図した点をすべて指摘して、立派な編集だと誉めていただいたから、嬉しさも一入(ひとしお)である。O氏は仙人をめざしたくらいだから、密教も、空海のこともたいへん勉強されており、「空海の悟りの一境地」という言葉はたいへん重く聞こえた。

この後、空海の思想や般若心経の意味などの解説が20頁ほど続き、「四国お遍路まんだら」の記述への感想が書かれて、最後に読後感が記されていた。

読後の清涼感
この書は、読みやすく、分かり易く、伝えたい事を無駄なく、要領よく綴ってあると思います。処々の登場人物の事々や、挿話や、また己れの所感や ‥‥ は、全体の多彩さや面白さを増幅していると思います。まず、百点満点の出来映えと思います。(中略)この書は、僕には読了して、何とも清々(すがすが)しい気持でした。何か満たされた気持でした。お大師様の広大な慈悲の一端に、触れたような気持すらしました。

そして最後に載っていた一句。
     相揺れて 佳香(かこう)を立たせ 洋薄荷(はっか)

「読みやすく、分かり易く」は推敲しているときに、常に念頭に置いたことであった。そんなに事件が起きるわけでもなく、面白いかどうかは自信がなかったが、41日間、嫌な思いを一度もする事が無くて歩いて来れた。それをそのまま書いたから、マイナスイメージの言葉をほとんど使っていない。そんなところから清涼感を感じてもらえたとすると、我意を得たりの思いである。

若い頃、O氏に創作を持ち込んで批評してもらったことが何度かあった。辛口の批評で誉めてもらった記憶はほとんどなかった。40年経って、このようにベタ誉めされると、万歳を叫びたくなる。
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安政元年東海「大地震之事」

(大代川のカルガモ-5羽中3羽は今年生れた子ガモのはずだがもう見分けはつかない)

先週木曜日の靜岡の古文書解読基礎講座で読んだ古文書の一つは「大地震之事」である。これは安政元年11月4日に起きた東海大地震である。以下に、書き下した文を書き込む。

   大地震のこと  但し駿、遠、三
安政元(寅)年十一月四日、朝五つ時のことなり、さても俄にゆれ出し、平一面山野も崩るゝばかり瞬くうちのことなりし、そのおそろしきこと、天地もくつがえらんとするの思い、各々いかなる目に逢ふるやとおどろき、所々土蔵は残らずふるいおとし、物置、雪隠などは総潰れで、井戸よりは吹き出し、藤枝町にては即死四、五人あり、昼のことゆえ怪我人は少なく、これ天の助けなるべし、

下傳馬町横町油屋儀介と申す者方より火出で、左車残らず焼け、松原二軒家より水守まて飛火いたし、田中御城大破損、御家中一統総潰れ、御城主は当節本多豊前守様なり、御在城にて殿中を漸く御逃げ延び、御臺所役人三人即死なり、殿様にはすぐさま御発駕にて江戸表へ御越しになる、もっとも同月二十四日なり、榛原辺り大家、小家とも一同総潰れ、山の手辺りは格別の事なし、しかし小々ずつのいたみは一同の事なり、

十一月四日より大地震後七、八十日の間は毎日昼夜へ掛け、七、八度位、度々ゆれしなり、これにより銘々本家に住む事をせず、今にも又もや崩れんかとおぞ毛を立て、一同各々そのうら/\又ハ畑中へ小屋をかけ、それにて煮たきをいたし、その年も暮に及ぶといえども、正月の規式も右ゆえ不行届き、中には薮の中にて年を越ゆるもあり、極寒中といえども一生懸命の節ゆえ、寒さも厭わず、ただ露命を繋ぐを第一と心得、老人又ハ病人のことも構わず、

又正月二十七日の夜地震これあり、榛原辺りは大地震となり、二度凌ぎの小屋まで潰れしなり、しかし四日の地震とくらぶれば、先中のことに当る、これ以前、宝暦年中有りしとなり、後年に至りても百年又ハ百五十年目頃は必ず大地震あるべし、覚悟いたすべし、

東海道は、三島宿、沼津惣潰れの上焼失、原宿は障りなし、吉原宿は少し痛み、岩淵大痛み、蒲原宿残らず焼失、江尻、清水焼失死亡人多し、府中、御城大御破損、御堀端石垣など残らず崩れ落ち、その後御普請は安政四年(巳)秋より御取り掛り、来年までに御出来(しゅったい)、府中宿残らず焼失、丸子より島田宿までは家の潰れ候ことは少しなり、死失の人も格別のことなし、日坂、掛川、袋井この三宿は又格別の大変なり、総潰れの上焼失、死亡人も多し、御城々の潰れ、沼津、田中、掛川、濱松、横須賀、小島なり
(以下略)

藤枝近辺のことが詳しいから、そのあたりに住んでいた人が記録したものであろうか。安政元年を中心に、驚くほどの大地震が日本に起きている。以下に記してみると、

   1854.11.4 東海大地震   M8.4
   1854.11.5 南海道沖地震  M8.4
   1854.11.7 四国西部大地震 M7.0
   1855.10.2 江戸大地震   M6.9

この時代、すでに100年から150年の周期で大地震に見舞われることが知られていた。安政元年から150年前の、1703年には関東大地震(M8.2)、1707年には宝永大地震(M8.4)が起きている。1854年に150年を加えると2004年になる。もう150年は過ぎているが、1923年のM7.9の関東大震災や、1944年の大戦中で情報が制限されたが、M7.9の東南海地震が起きている。この地震でエネルギーが放出されていれば、東海地震が起きるのはまだ30~50年先かもしれない。

この安政の東海大地震については静岡県でも各地でその実態を記録した古文書が残っている。全国規模で古文書のデーターベースが出来て、横断的に地震データーが検索できれば、次世代のための貴重な資料になると思う。古文書の世界はまだまだ未発掘な部分が多く、先人の知恵が埋もれた宝庫だと思う。

今年も8月29日(日)に地域の地震防災訓練がある。明日夜に訓練の打ち合わせの会合があるという。今年は防災委員だから出席しなければならない。明日にも来ると東海地震がいわれて、すでに32年経った。その間に観測機器は靜岡県には他県よりもたくさん設置されたが、今もって予知技術が確立したとは聞かない。行政は毎年新しく県民の気を引き締めるのに大変苦労している。
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お盆が終り皆んな帰った

(握りと軍艦巻きが出来た)

当家のお盆、迎える霊はいないけれども、子供たちは帰って来る。11日に名古屋のかなくん一家が帰って来た。掛川のまーくん一家も時々来て、二タ家族が行ったり来たりで、今日までいた。14日は友人の引越し手伝いのまーくんのパパを除いて、まーくん一家も泊まり、またまた9人の大家族になった。今朝は、お盆のお参りと、まーくん、かなくんのひいおじいさんに会いに、女房の実家に行き、お墓参りもしてきた。

昨夜はかなくんのパパをシェフに例によって寿司パーティをした。寿司ネタを島田に買いに出かけた。帰省客のためか、国道の特に上りが混んでいて、旧国道やバイパスを避けて、横岡の水路橋を渡って島田に行った。寿司ネタにマグロ、タコ、エビ、イカ、ホタテ、イクラなどと買っていくと、けっこう高くついてしまう。なぜかうちのシェフはお稲荷さんが好きで、それも買うことを忘れない。

握りはかなくんパパのお手並みを拝見した。アルバイトの経験が生きている。一つ握って見たが、御飯が手についてしまい一つ握ってギブアップした。手に酢を付けると御飯が付かなくて良いと聞いていたが、酢では味が変わってしまうので、水を含んだ布巾を脇に置いて、水を使って着かないようにするのだと言う。次に卵焼きを焼こうと思ったが、火が強かったようで焦がしてしまった。これは息子が再挑戦して上手に焼いた。後半は軍艦巻きをたくさん作った。海苔で巻いた上にスプーンでネタを載せる作業をした。これはそんなに技術はいらない。シェフは軍艦巻きを大きく作りすぎたという。前回はまーくんのパパが海苔巻きの細巻を作ってくれたが、今日は省略になった。苦労させた割には安上がりにならず、これではお持ち帰り寿司を買ってきた方が早くて良かったかと思ったが、作ってすぐに食べられるから、シャリがおいしい。幾つか食べる間にお腹もくちくなった。

明けて今日、まーくんのパパもやってきて、お昼には団子を作った。団子の粉は毎年故郷からたくさんもらって来る。今年も頂いてきた。水を加えてねって、小さく切ってお湯を沸かした鍋に放り込む。浮かんできたら出来上がりと承知していたが、女房がもう少し置かないと中まで火が通らないという。冷水に入れて荒熱を取り、餡ときな粉の二通りを作る。山になって出来たお団子も、みんなで食べたら小気味よく無くなった。まーくん、かなくんには喉に詰めては困るのでまだ食べさせない。その代わり、ソーメンを茹でてやり、手掴みで食べていた。

午後にはかなくん一家が名古屋へ車で帰って行き、しばらくして、寝ていたまーくんも起されて、掛川へ帰って行った。静かになった午後は昼寝タイムとなった。
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横岡古窯跡群の系譜

(考古学講座会場隣の公園のタカサゴユリ)

「島田金谷の考古学と歴史」第3回に出かけた。金谷の横岡にある古窯跡を見ていくと不思議な系譜があることに気付かされる。古い窯跡(かまあと)を発掘する際に、「灰原」と呼ばれる失敗品と灰の捨て場を発掘することで、どの時代の、どういう焼き物が焼かれた窯跡かがわかる。横岡の古窯跡では継続性のない古窯が出来ては廃れ、出来ては廃れして、今日の志戸呂焼に至っていることが判る。焼き物に良い土があったから、窯が出来るが、その時代々々の理由で廃れ、全く系譜の異なる陶工集団が入ってきて一時窯を興す、そんなくり返しがあった。

島田市旗指に平安初期から鎌倉初頭の旗指古窯跡群がある。往時、駿河の一大古窯跡と言われている。50基の窯跡があって、灰釉陶器の古窯跡。灰釉陶器は藁(わら)などの植物の灰を原料にした釉薬を掛けた焼き物で、古瀬戸の流れを汲むものと考えられている。その旗指の陶工集団が拡散・移転し、その一部が良い土のある大井川対岸、横岡の釜谷に築窯した。釜谷西古窯跡で一基が確認されている。

ところが、その窯とは別に、12世紀前半から13世紀後半にかけて、山茶碗窯が、すやん沢、椿沢、きつね沢北、きつね沢、ほろん沢で焼かれ、窯跡が発掘調査されている。山茶碗とは、陶器の日常容器としての需要が高まったために、無釉(むゆう)の碗・皿・鉢類を量産したものである。その時代、東遠江最大の生産地といわれている。14世紀になると、のこぎりやかんなの発達によって、木材加工が容易になり、日常容器が割れない木製品(井川めんぱもこの時代に出来た)、漆器に移ったために山茶碗窯は衰退した。

15世紀後半に横岡より少し奥へ入った所へ、古瀬戸系施釉陶器窯が2基築窯された。川根沢、三ツ沢古窯跡である。技法が古瀬戸と全く同じで見分けがつかないという。瀬戸周辺以外では日本唯一といわれている。製品としては、武士・寺院向けとして天目茶碗・茶入・四耳茶壷・燭台・仏餉具・托、庶民向けとして摺り鉢・卸皿・甕などが焼かれた。

尾張と遠江守護職の斯波義廉の代官が尾張の瀬戸周辺の陶工を招致して、築窯したものと想像されるが、その後間もなく、応仁、文明の乱が起きて、地方にも波及し、1475年勝間田・横地の乱が起き、駿河守護職今川義忠は見付府中城を攻撃し、遠州を勢力下に置いた。ただ今川義忠は凱旋の途中、塩買坂で残党に討たれ、落命したという後日談がある。斯波氏が守護職を追われたので、そのために古瀬戸系施釉陶器窯はわずか20年足らずで終ってしまった。

天正年間に操業を開始した上志戸呂窯跡(志戸呂焼に繋がる窯)とは全く別の系譜の話である。
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「近国騒動」 - 喜三太さんの記録

(台風4号が去った大代川の流れ、葦などが繁茂して危うい)

昨日に続いて、掛川の古文書講座、二つ目の項目である。甲州騒動が四、五万人の規模の大騒動となり、一週間も続いたのに続いて、当地、掛川の近国でも幾つか騒動があった。前記「甲州騒動」についてあれだけ詳しく状況を書いたのに比べて、近国の状況はいかにも簡単でそっけない。これはおそらく情報源が近国では噂話ぐらいだったのではないかと思う。以下に書き下した文を示す。

近国騒動
汐風以来、人気悪く、駿州島田宿にても小前一同徒党いたし、藤枝宿築地の長左衛門と申す者を打潰し、大騒動いたし候に付、その時の問屋、所追放に相成り申し候、同国トウメ(当目)という所の鹿右衛門というものも打潰され、三州辺にも所々これ有り候
当国は仕合せと、大損義これ無く候に付、中泉、時の御代官御首尾よろしかりしと申し候
大坂御城付与力、大塩平八、乱をなせしもこの年なり

※ 人気(じんき)- その地域の人々の気風。

まず、記事は島田宿にて騒動が起き、隣りの藤枝宿築地の長左衛門が打壊しにあったと記す。長左衛門は藤枝の造り酒屋で、現在も「杉錦」という銘柄のお酒を造っている店だという。その時、問屋が所追放になったとあるが、唐突に問屋が出てきてどんな咎があったのか分からない。講師の話では、この打壊し騒動については、島田市、藤枝市双方とも市史に記録が一切無い。故意に落したわけではなく、古文書についてはまだまだ研究が進んでおらず、両市史とも記述が落ちているのだろう。聞くところによると、編纂中の新しい藤枝市史にはこの事件が記載されると聞く。

次に当目(焼津市)で起きた騒動では鹿右衛門の家が打壊されたと記述されている。よく調べると、本家鹿右衛門を狙った打壊しであったが、実際には間違えて分家の鹿五郎の家が襲われたという。人のうわさではもう一つ正確では無い部分もあるようだ。甲州騒動でもそうであるが、用意周到に打壊しがされたわけではなくて、衆を頼んで勢いで打壊しが起きるから、そのような間違いも往々にしてあったのであろう。

遠州では騒動も無くて済んだため、中泉の代官所は対応が良かったと誉められた。時の代官は面目を施したと思われる。それは地方の役人にとっては大きな勲章だったはずである。

最後に大塩平八郎の乱もこの年だったと結ぶ。大阪で起きたことが、内密にしたい御役人の意向にも関わらず、すでに遠州にも伝わってきている。
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「甲州騒動」 - 喜三太さんの記録

(ゴーヤの葉っぱにアサガオ? ここには昨年、アサガオを咲かせていた)

昨日、掛川の古文書講座に出席した。本日の課題は、引き続いて「喜三太さんの記録」より、「甲州騒動」である。

有名な甲州騒動のあらましを述べたものであるが、最後にこの情報は甲州より来た商人から聞いたということが明らかにされる。甲州騒動については地元の古文書などで細かい経緯まで明らかになっているが、一商人から聞いた内容としてはかなり正確に、しかもポイントをとらえた話になっていて、テレビもラジオも新聞も無い時代に、どのようにして情報が流れて行ったを知る上で貴重な資料である。

事件発生から2ヶ月という期間は早いというべきか、遅いというべきか。大きな事件は人の口を通して確実に全国に広まって行ったことをうかがわせる。虚実の情報が瞬時に飛び交うインターネットの時代にいて、どちらが事件の真相を正確に伝えているのか、考えさせられる。以下に、書き下した文を示す。

甲州騒動
諸国一統凶作に付、甲州熊野堂村奥右衛門と申すもの、青田頃より米穀買込み、八月に至り米値段百文に付四合に売り出し候ところ、同国下和田村武七、犬目村兵助と申す者二人内談いたし候は、奥右衛門こと夏以来より米穀買占め、かく高値に売り候こと、諸人一統の難渋に候あいだ、奥右衛門方へ掛合い米穀値下げいたすよう致したく、もしまた掛合いの上、なおも不承知申すにおいては是非およばず候あいだ、打潰し申すべしと存じ候あいだ、その節は各々加勢頼み入る段の落し文をいたし置き、八月二十一日、奥右衛門方へ両人頭取として参り候ところ、所々より加勢の人数四五百人も出で、熊野堂へ参り候節は七八百人にも相成り、頭取いまだ掛合いもこれ無き内、大勢奥右衛門方へ乱入し、家蔵へ火を懸け、米穀はじめ呉服物、質物、酒、その外、諸帳面類、証文に至るまで、残らず焼き、それにより同村内にて七八軒も打潰し、焼き払い大騒動と成りしかば、武七、兵助談じ候は、いまだ奥右衛門方へ掛合いもこれ無き内、右様乱暴におよび候いては、とても我ら両人の了簡の所へは行き申すまじく、二人共引き取り候

※ 一統 - おしなべて。いちように。
※ 落し文(おとしぶみ)- 政治批判など公然とは言えないことを書いて、人目につきやすい所に落としておく文書。落書(らくしょ)。
※ 頭取 - 音頭を取る人。音頭取り。
※ 了簡 - 考え。思慮。分別。

総て無頭取の乱軍と相成り近辺遠辺となく乱れ出し、人数も追々相増し、四、五万人ほどの人数にて、所々、村々、町々打潰し焼き払い、同二十七日まで乱暴いたし、歩き行きければ、大名籏本より捕人出で候えども、大勢ゆえ中々御手に余り、沼津様、小田原様、ならびに諏訪様、御加勢として御乗り込み遊ばされ、漸々取り鎮め候由

然る所、武七儀は行年七拾余の老人なりしが、御役所へ願い出で申し上げ候は、この度の騒動、我ら頭取に候えども、中々最初より右様乱暴いたし候了簡御座なく、只々米穀下値にいたし諸人の難渋を救うとの願いにて、加勢を頼む落し文をいたし候ところに、かくの次第に相成り、何とも申し開き御座なく候、兵助義は騒動最中より行衛知らずに候あいだ、御とがめの儀は私一人へ仰せ付けられ候ように願出で候由

この節、江戸御留役御両人、甲州へ御出役にて御吟味中、奥右衛門、武七両人とも入牢、外に七、八百人も入牢の者あり、死人怪我人、数をしらず、潰家二百二十軒、類焼の家百軒余り、当時信州諏訪様より御堅めとして大勢相詰め罷り在り候

右は十月二十三日、甲州川口駒屋吉六よりの話、聞き書き、あら/\かくの如くに候、実説来春話すべくとのことに候
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