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琴ヶ浜のお龍・君枝姉妹像

(琴ヶ浜のお龍・君枝姉妹像)

お遍路12日目、5月18日、琴ヶ浜を西へ歩いていくと中間を過ぎた辺りに、海水健康プールや野外劇場などの施設がある。そのすぐ先にお龍・君枝姉妹像が太平洋を望んで立っていた。お龍といえば坂本龍馬の妻であるが、お龍に姉妹がいたことを初めて知った。

案内板によると、お龍は京都の医師檜崎将作の長女で、君枝(起美)はその三女であった。龍馬はお龍の妹君枝を気づかい、海援隊士の菅野覚兵衛とめあわせることを望んでいた。龍馬の没後の慶応四年、菅野覚兵衛と君枝は長崎で結婚した。君枝、十六歳の花嫁であった。

菅野覚兵衛(千屋寅之助)は琴ヶ浜に沿った芸西村和食の庄屋の出で、千屋民五郎の三男として生まれ、土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)山内容堂を警護する五十人組に参加し上京する。その時、坂本龍馬らともに勝海舟の弟子となる。海舟の進言によって幕府が神戸に設置した神戸海軍操練所にも参加し海軍を学ぶ。その後海援隊に参加する。君枝と結婚後、戊辰戦争に参加し奥羽地方を転戦、戊辰戦争後はアメリカに留学し、帰国後海軍省に入省、海軍少将にまでなったが、西南戦争の前哨戦「弾薬掠奪事件」に関係したため海軍の中では不遇に終わる。退官後、福島県郡山市の安積原野に入植し、開拓事業に参加するも、道半ばにて52歳で死去。

お龍は龍馬を失ったあと、明治元年から一年余り、妹の嫁ぎ先千屋家に身を寄せた。おそらく、その後の自らの身の振り方など悩みもあったに違いない。妹の君枝も千屋家に住んだ時期もあったというが、姉妹がそろってこの琴ヶ浜を散策するようなことが実際にあったのだろうか。芸西村の人たちは、お龍と君枝姉妹の追善をするとともに、義兄弟の龍馬と覚兵衛を記念するために、姉妹の像を建てた。平成5年完成した姉妹像は高さ1.7メートルのブロンズ製で、作者は浜田浩造氏(故人)。日本髪に着物姿の姉妹はお龍27歳、君枝16歳の頃を想定しての作といわれ、桂浜の龍馬像に向かってやさしく手を振る様子を表わしているという。

龍馬と同じ時に刃に倒れた中岡慎太郎は遍路道からは少し離れていたが室戸岬に銅像がある。そして桂浜の龍馬像は室戸岬に立つ中岡慎太郎像と向かい合っているといわれる。その視線の中に、お龍姉妹の視線が割り込んできたようで面白い。こんな想定が出来るのも、高知の海岸線が太平洋に開きながらも大きく弧を描いているからである。その弧状の海岸に沿ってお遍路道は続く。
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